ひょうたん沼伝説

うつのみや郊外の里山にひっそり佇む底なし沼、そこに隠されていた秘密とは。いま明かされるひょうたん沼伝説。
昭和42年、農家の跡地を買い取って小さな医院を開いた父とともに一家でうつのみやにやってきた。うつのみやといったら人口23万の大都会、2本しかわたされていない丸木橋をわたって登校し、石炭ストーブの石炭運び当番のある木造校舎の学校にかよっていた鹿沼からきた子どもにとっては十分に都会であった。
 庭にあった井戸はうめられ、隣には同時に分筆したであろう敷地に走り屋あがりのちょっとワルな夫婦が自転車屋を同時期に開業した。鹿沼街道は舗装された幹線道路であったし、街道沿いの新築は近代的な家で、井戸を埋めた庭には芝生をうえていた。テレビで紹介される天皇陛下の家庭のように男の子二人と近代的で明るい家庭を築くつもりであったのがうかがえる。
しかし・・・
うつのみやといってもあの辺は田舎であった。
 反対側の隣は竹藪だった。うしろは造園業のおっさんが管理している敷地で、樹木にいたずらするとえらく怒られた。敷地もたいして広くなくてそのむこうは田んぼ。夜な夜なかえるの大合唱が最低でも60dBぐらいで鳴り響いていた。
 新しい土地に転居してきたので、近所のこども達と友達になるはずであった。隣の家、竹藪の持ち主には少し年上の男の子と妹がいて転居のその日に塀越しから声を掛けてくれ、仲良くしてくれそうだった。
しかし・・・
 私の親は私のようなお坊ちゃまには公立小学校が無理とおもったのか、鹿沼では公立の小学校にいっていたのに、学区の反対側のさくしんがくえんに放り込んだ。たぶん、学区であった富士見小があまりに遠くて通えないとおもったのかもしれない。そういう事情で、地元の友達は少なく、弟と二人であたらしい街、どうみてもムラだが、を少しずつ探検することにした。
 鹿沼街道の反対側は住宅やスケートリンクや学校があり大都会うつのみやであったが、南側には舗装された道など全くなく田舎の畦道に軽トラックが走れるようになったぐらいの道が田んぼの先に延々と複雑に続いていた。
 おそるおそる、道を探索していった。自転車屋の脇の道を南にはいると、しばらくすると丁字路になって、住宅地のある左と田んぼが続く右にのび、大きく左にカーブしながら、南の奥地へ道が続いていた。しばらく歩くとまたもや竹藪があり、小さい三角形の敷地の竹藪だったので、三角の竹藪とよんでいた。竹藪を左にみて、右はだだっ広い田んぼであったが、竹藪がおわると小さい川がながれていた。いまとなっては用水路のような川であったのだと思う。そのころは本当に農婦姿のおばさん達が川で洗濯をしてた。
 その川沿いにさらに西に道はのびていた、途中に梵字かなんか自分では読めない謎の字が大きくかかれている石碑があった。あれはなんだったのだろう。石碑をすぎて、しばらくいくと今度は昼でも薄暗い雑木林があって、そこだけいつも道がぬかるんでいた。しいたけかなんかを栽培していたのだろうか、お坊ちゃんにはよくわからない木組みかなにかがあって、大人がきたらおこられそうだった。
 その雑木林をぬけると、開けた風景がひろがるが、目の前に小高い丘がみえてくる。右のほうは最近開発されて分譲住宅を建てる予定であったのか、木が切られて段々のひな壇に土地が整地されていた、左はうっそうと茂る森で、左をみるとずっとその森がつづいているようにみえた。目の前には凝灰岩の崖があったが、まさか、そこを登るようになるとはおもわなかった。
 ある日、隣の年上の男の子が、ひょうたん沼にいったことがあるかと聞いてきた。今度一緒にいこうという。どうもその崖をのぼっていくとたどり着けるらしい。ひょうたん沼は底なし沼なんだ、知っているか。
ひょうたん沼との出会いであった。
(あいまいな記憶は適当にデフォルメ、ようわからん)
続く・・・
今日もがんばって書いた・・・・
 ひょうたん沼探検隊は、隣の年長の男の子と妹、私と弟の4人だった。自転車もまだ乗れなかったので歩いて出発。自転車屋の脇の道、右見まがって農家の脇をとおりながら、左へカーブ、三角の竹藪、梵字の石碑、慣れてしまえばなんてことのない雑木林を抜け、崖の前にたどり着いた。
 なんでここで、道を選ばないで崖を登るかというと、結局それが近道であったからという理由だった。右手の500メートルぐらい行けば、舗装された急坂の道路があってそこを登って、また500メートルもどってくれば崖の上がったところに戻れた。当時はそんなことも知らないから、年上の子のいうとおり、崖を登った。
 崖といっても高さは30mぐらいであったし、こどもがフリーで登れるぐらいであるからそんな斜度ではなかったのだろう。
しかし・・
 こどもにとっては崖であった。慎重に岩をつかみ足をかけ登っていった。この崖はその後何回も登ったのでどこに岩があって足をかけたら登りやすいかは覚えてしまったが、初めての崖は全行程のなかで最も危険な場所であったにちがいない。
 崖を登ると、道があるはずもなく、分譲のために整地されたひな壇の土地の脇を歩いて行く。しばらくすると大きな家があって道にである。既に山というか丘の上である。右にみえる分譲地をあとに左の雑木林のなかに入っていく。しばらくすると、林は途切れこんどは広い牧草地にでた。
 牧草地の真ん中に道はきられており、牧草地は右の方が高い丘になっており左は落ち込んでいて結構な急斜面な草地であった。牧草地をしばらく歩くと、いよいよ本格的な薄暗い森に入る。
 くぬぎや樫の木がうっそうと密に生えている森のなかは、昼でも暗く、道はいよいよ細くなっていくが、そこは小学生、またしても近道で、林のなかの斜面をそのまま左に降りていく。
どんどん降りていくと。傾斜はやみ、ぴょこんと平地にでる。左には小さな祠がある。そして右前に
ついに・・・
沼がみえたのであった。
 ひょうたん沼である。われわれはひょうたん沼の北西の端にたどりついたのであった。
これが底なし沼か・・・
 と感動するかとおもいきや、沼にはいりこんでいる水路にはオタマジャクシが一杯。ひとすくい100匹ぐらいはとれそうなオタマジャクシと、蛙の卵にとらわれた。オタマジャクシを持って帰る用意はしていないし、そんなことに興味をもつわけでもなかったので、オタマジャクシ地帯をあとにして、
どういうわけか、ひょうたん沼の反対側、東側にたどりついた。どうもこの辺の記憶も怪しい。北側の沼の淵にそって道があったのかもしれない。
 東側はひょうたん沼の表側であり、おっさんがボートかなんかを置いていたように覚えている。だれも乗る人はいなかったからボートはこわれていたのかもしれない。沼の淵には、図鑑でしか見たことのなかったタイコウチがいた。
 おっさんに声かけられ、振り向いたら蛇がいた!
 これはシマヘビだよといっておっさんは蛇をわしづかみにし、触ってみろという。おそるおそるさわると、蛇はぬるぬるしているだろうという予想に反して、ガサガサしたさわり心地であった。は虫類の体表なんてそんなものである。
 ひょうたん沼でひとしきり過ごした後、さらに南のクリ畑の脇を抜けると、林はと切れ、また田んぼの風景になる。しばらく歩くとやっと舗装道路にでた。楡木街道である。バス停があった。バスの行き先はなんと佐野行き。宇都宮から当時佐野までいくバスがあったのかはしらないが、確かに佐野行きだった。年上の男の子に記録しろといわれ、佐野行きのバスがあることをなんかに書き留めた。
 その後の帰り道はよく覚えていない。
 弟はまだ小さく歩くのも限界でやっとついてこられるようであった。きっとなだめすかして、楡木街道をすこしうつのみや市街の方向にもどり、複雑な軽トラック道を北上して帰ってきたのだろう。家に帰るころはすっかり遅くなっていた。
おまえら、どこにいってきたんだ。父にとがめられた。
ひょうたん沼・・・・
ひょ、ひょうたん沼に行ってきたのか。父は聞いた。
おこられる。親に内緒で底なし沼にいってきたんだ。怒られるにきまっている。
と小さくなったが。父親の答えは意外なものであった。
おれもひょうたん沼にいきたい・・・・・・
ひょうたん沼が我が家に乱入した瞬間であった。
続く・・・
ひょうたん沼伝説、その3
おまえら、どこにいってきたんだ。父にとがめられた。
ひょうたん沼・・・・
ひょ、ひょうたん沼に行ってきたのか。父は聞いた。
おこられる。親に内緒で底なし沼にいってきたんだ。怒られるにきまっている。
と小さくなったが。父親の答えは意外なものであった。
おれもひょうたん沼にいきたい・・・・・・
 うつのみやに転居後、父は小さい頃にすきだったらしい昆虫採集を再開しはじめたところだった。近隣の畑は農家の周囲などで蝶をとっていたところだった。多分、患者さんの誰かから聞いていたのであろう。ひょうたん沼という森に佇む底なし沼があって、そこにいけばいろいろな蝶が生息していると確信していたのであろう。
 ひょうたん沼はこども同士の秘密の遊び場から家族の出かけるところに変化してしまった。
 大人である父親とひょうたん沼にいくのに崖を登る必要はない。スバル360でお羽黒山の舗装された急坂を、セカンドギヤでぐいぐいのぼりまだ分譲されていないひな壇の脇をトップギヤでブンブン運転し、左折して大きな家の前の空き地に駐車すれば、もうすぐそこは牧草地であった。楽ちんであった。
 親にもたされた昆虫網を兄弟でもって網をもった親子3人で牧草地から歩いて行く。春の牧草地にはトラフシジミやアオバセセリなどいまとなっては珍しくなってしまった種が網にはいった。
 ひょうたん沼での父の最初のねらいはゼフィルスであったと記憶している。日本にはモルフォ蝶のような大型で光る蝶は分布していないのであるが、小型で美しく光る、ギリシャ神話にて西風とよばれるゼフィルスというシジミチョウ科の一群の種が分布している。街中では見かけることが出来ず、国立公園など自然が豊かな山地で主にみつけることができた。ひょうたん沼にはミドリシジミ、オオミドリシジミなど里山に分布する平地種がみられた。
 ゼフィルスは朝と夕方に広葉樹の高木の上の方でちらちらと飛び回るので、竹を何本も継いだ5m以上もある本格的な捕虫網が必要である。そんなのは父しかもっていないのでこちらはまあ、付き合わされるという状況であった。夏の朝早くに網をもってゼフィルスを親子で取りにいくのである。ひょうたん沼の周囲の樹林帯が採集地であった。
 わたしはちょっと面白くなかった。なぜなら、同じ場所で朝、さくしんがくえんではない公立の学校の上級生がバットをもって来ていたからだ。かれらはバットでくぬぎの木をみえないスイングでぶったたき、ばらばらと落ちてくる虫を下級生があつめていた。クワガタだった。そっちのほうがはるかに魅力的でうらやましかったが、さくしんがくえんの親子できているお坊ちゃんにはどうすることもできなかった。
 鹿沼にいたころもそうであったが、都会で人気のあるカブトムシはくそむしといってここいらの田舎のこども達には全く相手にされていなかった。クワガタはカブトムシより稀少で、カブトムシはどこでもみつけられるが、クワガタは捕まえて学校に持って行けばスタアであった。クワガタはカブトムシと違って二本の角があり、休み時間におたがいのクワガタの二本の角をからみあわせて決闘ができるのでこども達には人気があったのである。
 カブトムシは大人にとっても評判がよくなかったのだろう、春先にひょうたん沼にいくとおっさんがたき火を道ばたというか道の真ん中でしていて、カブトムシの幼虫を焼き殺していた。きっとクリ畑などにとっては害虫であったのだろう。詳しいことはいまでもよくわからない。
 ひょうたん沼はすっかり父親のおもちゃになってしまって、ひょうたん沼の昆虫は大学をやめて研究を不本意にもやめた父の格好の研究フィールドとなってしまった。
おまえも論文を書け・・
 といわれ、ひょうたん沼の林の下の笹に多く生息していたヒメウラナミジャノメの紋の研究というのをやらされた。ヒメウラナミジャノメというのは蝶のなかではもっとも地味で人気のないジャノメチョウ科の普通種で、採集するのもきわめて簡単である。後翅の裏面の目玉の紋の数、特に一番外側の紋の数が5から8個ぐらいのバリエーションがある。それを記載して論文にしろという。
 400字詰め原稿用紙に何十枚にわたって詳細を記載し、小学校の高学年のころの夏休み自由研究としてさくしんがくえんに提出した。きっと、自分が研究を中断していたから息子に論文でも書けるようにとトレーニングのつもりであったのであろう。
 ひょうたん沼を冬に訪ねることはほとんどなかった。蝶がいないというのが大きな理由であったが、沼に鴨がいたとか学校で話題になるとしばらくすると、大人が空気銃だか猟銃だかで撃ったとの話がまいこんで、流れ弾にあたると危ないからという理由でもあった。確かに銃声とかきいた記憶もある。
 ひょうたん沼は当時のこども達にとって秘密の遊び場であったし、大人達もひょうたん沼といろいろとかかわりがあったのであろう。小学校を卒業する頃、蝶をとる父親にはつきあいきれなくなり、親子で訪ねることはぐっと少なくなったが、あの頃のこども達だけの結界の魔力がなくなってきたため、行かなくなったのかもしれない。
ひょうたん沼は、こども達の魔界から親の研究フィールドになってしまったのであった。
続く・・・・
閑話休題・・・ひょうたん沼についての解説
 筋金入りの昆虫学者がひょうたん沼に関わることになったので、結果的に多くの調査がなされ、数編の論文が昆虫学の雑誌に掲載された。生息する昆虫についてももちろんであるが、ひょうたん沼についても詳細に研究されているのでここで紹介したい。
 地元のこども達がひょうたん沼と呼んでいた人工の溜池は、国土交通省の地図には鶴田沼と記載されている。最近の観光地図にはひょうたん池と記載されていることもある。
 ひょうたん沼は農業用水の溜池として1600年代につくられたという。沼を形成する地形となるお羽黒山と地元でよんでいた標高140mの丘は南にむかって緩やかに低くなる洪積台地であり、台地は分譲のため整地されたひな壇の南あたりから、東西にわかれ、中央が谷状になっている。その南端の部分で人口の土堤が東西にこの谷をさえぎり沼をつくっている。北端のお羽黒山神社からこの土堤までは1100mだそうである。子ども心にはなかなか長い山道であった。
 うつのみやの西部には鶴田沼のほかにもいくつかの人口の溜池があり、西に向かって、初網沼、七久保溜、寺内溜、大石神、大沢入とよばれている。これらも300年以上前につくられ、1600年代の寛永年間に、未利用だった洪積台地の周囲の沖積湿地に排水工事をおこなって低湿地を水田に、湿田を乾田にするための灌漑用水を確保するためにつくられた溜池だろうとされている。300年の間に何回か修理されたとの伝説があるが詳細は不明である。
 鶴田沼の水源はこの羽黒台の谷の湧き水であったが、林が伐採されて台地の保水力が低下し、住宅地一帯の道路が舗装されて沼に流入する水量が減り、徐々に水面面積が低下していく過程にあった。
 1942年に鶴田沼をとりまく二次林のなかに、日本中央競馬会宇都宮育成牧場の牧草畑がつくられたとあり、これがひょうたん沼にたどりつくまでに横切った牧草畑である。
 崖の右側の整地されたひな壇の土地は1960年代後半に開発されたというが、私が最初に崖にたどり着いたときにはもう整地されていたので、1966年頃に開発されたのだろうと思う。もともとはアカマツを主体とした林であったそうだ。
 
ひょうたん沼の北側は葦の群生する湿地帯となっており、その北はハンノキが茂る湿地林になっている。昆虫学者の興味をひいたこの地帯は、こども達はほとんど足を踏み入れなかった。湿地帯をあるくにはこどもの運動靴は非力であったし、だいたいクワガタもいないようなところに行くわけがないのであった。この湿地帯では1983年以降発見されていなかったハッチョウトンボをくだんの昆虫学者が再発見し後に鶴田沼を代表する昆虫となるが、ちいさくて地味なトンボはこどもごころには特に響かなかった。
 ただこの湿地帯の対岸の丘にも南北につらなる細い道があって、それは崖の手前でとぎれていることを発見した。この道は、山の麓、ようするに東側の田んぼ側から、小川をはさんで登ってたどり着ける道とつながっていた。大きな金持ちそうな農家の脇から急坂をあがって右にまがると最高点につくので、その全くの山道を、自転車をかつぎあげて登って、当時札幌オリンピックで滑降競技があったのに影響されて、自転車で時速40kmぐらいで駆け下りタイムを競って遊んでいたのがわれわれであった。自転車のハンドルは曲がるしスポークは歪むし、農家のおっさんにはしいたけを荒らしていると通報されるし、われわれは全くしいたけに興味はなかったので濡れ衣なのであるが、友人は転倒して怪我するし・・まあこんなことで夕方遊べてしまう小学生だった。
ひょうたん沼の学問的解説をする予定だったが、こんな文章になってしまった。まあいいだろう。
続く、
次回はきっと最終回・・・・
それでは感動の最終回(じゃじゃーん)
 父と一緒に蝶の採集にいくことにだんだん気乗りがしなくなってきたのは、父があちこちで嘆いていたようにその通りである。第一に捕まえた蝶を三角紙に翅をたたんだ状態で封じ込め、指で胴体を押して圧死させるのが嫌だった。第二にひょうたん沼に北側からたどりつくと、大谷石を数段重ねた土台の上に鎮座した石造りの祠が現れ、その周囲は草地であり休憩するには良いところで、持ってきたおにぎりを水筒のお茶で食べるのであるが、いかにも都会からきたお坊ちゃまの観光客のようでこっぱずかしかった。
 それでも祠のまえに座ってみると、そのしんとした場所が嫌いではなかった。数十メートルで沼の北端にでるが、そこからみるひょうたん沼は、当時は南の土堤の先にも雑木林があったため、360度全周囲森にかこまれ、家も電線も全く目に入らず、車の音も全く聞こえない閉ざされた世界であり、そこに身を置くのは好きだった。
 お坊っちゃまで育ってはよくないと親は思ったのであろう、地元の公立中学校に入学した。ひょうたん沼の更に先、楡木街道のさらに向こう側の田んぼにかこまれた中学校に、自宅から小一時間もかけて歩いていくのは夏にはめまいがするほど大変だった。ひょうたん沼は忘れられた。中学校のマラソン大会でコースの一部が沼の西側の道であったので、秋に体育着で走りぬけるトレイルとなっていた。
 アイドルは蝶から南沙織になり、ヒーローはクワガタからよしだたくろうになっていた。ひょうたん沼は昆虫学者の手に委ねられ、忘却の彼方に去ったのである。
 中学校にいたころ、出来たばかりの東北縦貫道路の鹿沼インターへのとりつきのための、片道2車線、往復4車線の道が楡木街道をX字に横切る形で、造成された。鹿沼街道から楡木街道まで、自宅から羽黒台までの広大な地域にただの1軒もお金をつかってものを買う店などなかったほどの村落であったが、これは小さな変化の始まりだったのだろう。しかしその後しばらくの間は、たいした道路工事はなかったようだ。
 時は過ぎ、地元を離れ、お正月でさえもあまり実家にもよりつかなくなっていたが、たまたま実家に帰ったときに
おまえ、ひょうたん沼がどうなっているか知っているか
 と、訊かれた。
 久しぶりに行ってみると、南側の土堤の向こう側が整地され、雑木林が伐採され沼は明るくなり、新鮮な空気がはいりこんでいた。公園化計画があるのだという。
 更に時はたち、祠は2002年に無くなった。周囲の市街化がすすみこの水を利用して農業をするひとがいなくなり、水利組合が解散したのである。祠を管理する人がいなくなったため、近隣の神社にご神体が移されたそうである。大人にとってもひょうたん沼のオーラはもはや失せ、神性も消滅したのであった。
 ひょうたん沼は鶴田沼緑地(ひょうたん池)となり、土堤の南側に整備された駐車場からはいって見学する公園となった。
 広大な村は宇都宮市鶴田町と一括した住所でくくられ、いまだに番地も適当なようであるが、いつのまにか住宅地として整備され、宮環道路、新鹿沼街道など幅の広い車道が造成され、街道沿いには駐車場完備の店舗がならび、当然のことながら、三角の竹藪も、梵字の石碑も、ぬかるんだ雑木林の道もなくなり、おばさん達が洗濯していた小川も住宅地の水路となった。ひょうたん沼とその周囲のむらは消失した。
以上が私の知っている範囲でのひょうたん沼の物語である。
おしまい。


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