表現しないと伝わらない
言葉にしないと伝わらない。
意見があったら言わないと、その場にいないのと同じ。
そういう思いというか、信念がある。
ポリシーとかじゃなくて、そういうものなんだ、という、
どこか悲壮感を伴う意識。
小さい頃に親か誰かに言われたんだろう。
だから、言うには言うんだけど、
伝えたい、というよりは、いつも
言わなきゃ伝わらない。
言わなきゃ居ないも同じ。
だから言わなきゃいけない。
という切迫した感覚、言うことを要求されているような感覚がある。
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もひとつ、
人とつながるには、自分からオープンにする必要がある。
それも私が学んだことで、「頭と経験で知っている」ことだ。
だから、人とつながりたいときは、
自分の内側にあるものを外に出して、伝えなければいけない。
これは、やるとごくまれに温かさを感じることはあるけれど、
ナチュラルにやっていることは少なくて、
いろいろ考えながらやることのほうが多い。
そういうときは大体、とても疲れる。
SNSで友人の投稿に「いいね」を押したり、コメントをしたりすること。
おめでたい投稿などを目にすると、
なにか一言、添えたくなることはあるけれど、
「やらなきゃ好意を伝えられないから。
相手に自分の存在を感じてもらえない(=居ないと同じ)から」
という思いからになっていないか?
と考えて、しばらくやめてみることにした。
おめでたい投稿と言えば、私は、自分の誕生日を公開していない。
あれはホントに余計な機能だ。誕生日を公開する、という設定にしていると、その日、SNSが勝手に友人たちに通知してくれる。
私は誕生日に特になにか言ってもらいたいことはない。
「おめでとう!」というコメントがたくさんくると、返信が面倒なだけだ。
システムが勝手に知らせた情報をもとに「おめでとう!」「ありがとう♡」…この機械的なやりとりを複数の人と繰り返す。
表示されたから機械的に「おめでとう」と送っている人もいるだろう。
そんな心のない言葉の往復に、なにか意味があるのだろうか?と思ってしまう。
嬉しいサプライズとして受け取ればいいのに、と思われるかもしれない。
残念ながら、私はそういう軽いノリで生きてはいないようだ。
祝ってもらいたいなら、相手にその旨を伝えて、祝ってもらう。
もしくは、祝われる覚悟、祝辞をありがたく受け取る覚悟をして
誕生日であることを公言する。
だからごく近い人からの「おめでとう」を受け取って返すので精一杯だ。
そうやってみていると、SNSの機能のみでおめでたい情報を公開し、お祝いの言葉をもらうのを期待することは、おめでとうの搾取のような、浅ましさも感じるのだった。
ただ、こういう感覚も、私に
やらされている、やらなきゃいけない感があるから起こるのだろう。
返事が面倒、というのにも、
お祝いの言葉を言われたら、特に望んでいなかったとしても
相手に私がありがたがっているポジティブな人間と感じさせるために、
ありがとうと返信しなければいけない、
というコミュニケーションへの理解がある。
ここまで考えて、
私はコミュニケーションについて、
かなり形式的なものと捉えているんだなと気付いた。
深いところでつながるのはとても大変。
だけど円滑に、優しくあたたかく繋がっている風にするには、
形式的な、テクニックのようなものがあると感じていて、
それで対応しているのだと思う。
あたたかくて、優しくて、ポジティブで、
おおらかで、オープンな人でないといけない、
そういうコミュニケーションが理想なんでしょ、世の中は。
みたいな、見下したような、やさぐれたような感じもある。
これは前の記事にも書いた。
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さて、「いいね」を控えることで、どうなったか。
まず、何も言わない人も多くいることに意識が向いた。
そして、何も言わないからといって何も感じていないわけではないこと。
普段、投稿しても、いいねもコメントもしない人たちがいる。
読んでいるのかいないのかは、わからない。
もし読んでいるとしたら、
いいねとも思わないし、コメントをしようとも思わないけれど、
見ている限り何かしらがある。
何も感じなかったとしても、「何も感じなかった」がある。
同じように、もし読んでいなかったら、
「読まないという選択をさせる何か」がある。
そして、もし読んだとして、
なにかを感じても、なにもアクションをしない、
ということもある。
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なにかアクションをしなければ、居ないと同じ、
というビリーフがあると書いた。
そこにいつも苦しさを感じ、表現するのに悲壮感を伴うのは、
何もしなくても居るのだ、ということを
本当は言いたいからかもしれない。
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