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三浦メモに対するreply

先日投稿した「『トランス女性は女性である』という主張は何を意味しているのか」の内容について、補足の中でも取り上げた哲学者の三浦俊彦から反応をいただきました(「【8月20日討論会】のためのメモ」項目4)。
 まず、「トランス女性は女性である」という主張に対して「トランス女性は女性でない」と反論する人々に対して私が行った批判を振り返っておきましょう。私の考えでは、「トランス女性は女性である」という主張は、何らかの事実を記述するものではなく、「トランス女性は女性として扱われるべきだ」という規範を表明したものです。したがって、「トランス女性は事実として男性である」という記述的な主張によって反論をしても、お互いの主張の種類が異なっているため、両者の議論はかみ合わないものにしかならないと思われます。
 この主張に対して、三浦は以下のようにコメントしています。

「トランス女性は女性である」の述部の意味は? 「身体的女性である」ではない。「身体的女性として扱われるべきだ」という指令は実現不能なのだから(医療、スポーツ、性愛・・・)。よって、「非身体的な女性である」という意味だ。それをHと呼ぼう。Hの本性が何であれ、TRAは「トランス女性は事実としてHだ」でなく「Hとして扱われるべきだ」と言いたいのか?
事実としてのHとは何か、がわかっていなければ、「Hとして扱う」とはいかなる扱いなのか不明。よって、トランス女性は「事実としてHなのだからHとして扱うべきだ」とTRAは主張しているはずである。
すなわち、話は規範からその根拠たる事実に戻ることになる。
【8/20討論会】のためのメモ、強調は三浦による

 このあとに三浦独自の主張が続きますが、今回は私の意見に直接反論している箇所についてのみreplyすることにします。
 三浦のコメントには、2つの問題のある主張が含まれていると思います。

  • XについてYとして扱うべきでない事例が存在するならば、『XをYとして扱われるべきだ』という規範は理解不能なものになる。

  • XをYとして扱うためには、「事実としてのYとは何か」が理解されていることが必要である。したがって、XをYとして扱うべきだという主張は、「Xは事実としてYである」ということを根拠としている。

 それぞれ検討してみましょう。

第一の問題点:例外の存在は規範を理解不能なものにする?

 三浦氏は、医療やスポーツなどの「トランス女性を身体的女性(シス女性やトランス男性)と同じように扱うことができない事例が存在することを根拠に、「トランス女性を身体的女性として扱われるべきだ」という主張は理解不能であるとし、「トランス女性は女性である」と言われるときの「女性」は「身体的女性」ではないと主張しています。
 先日の記事にも書いたように、「トランス女性は女性である」と言われるときの「女性」はトランス女性とシス女性を総称したものだと解釈できます。その点で、「トランス女性は女性である」と言われるときの「女性」は「身体的女性」(のみ)を指したものではないという三浦の結論には同意できます。しかし、そこに至るまでの推論には問題があると考えます。
 私たちの持つ規範のほとんどは、「とりあえずの」(倫理学の用語を使えばprima facieの)ものにすぎません。たとえば、「人を殺すべきでない」という一見して絶対的に見える規範ですら、正当防衛や緊急回避といった例外を持っています。「トランス女性は女性として扱われるべきだ」という規範も、当然何らかの例外を持つものと考えるべきです(先日の記事で示唆したように、女性スペースの利用はその例外に当たるのかもしれません)。
 私たちの生活のほとんどの場面―会話をする、買い物をする、働く、研究する、授業を受けるなどの場面―において、トランス女性をシス女性と同じように扱うことに不都合は生じません。したがって、医療やスポーツなどの例外的な場面でトランス女性とシス女性に対して異なる扱いをする必要があるとしても、「トランス女性はシス女性として扱われるべきだ」という「とりあえずの」規範は十分受け入れることができます。

第二の問題点:何かをHとして扱うことは、それが事実としてHであることを根拠にしている?

 三浦によれば、ある人をHとして扱うべきだ、という主張を理解するためには、「事実としてのHとは何か」がわかっている必要があります。三浦はそのことを根拠として、トランス女性を「Hとして扱うべき」であることの根拠は、トランス女性が「事実としてHである」ことにあるはずだと主張しています。
 正直に言うと、前段の意味が私にはうまく理解できていません。「事実としてのHとは何か」がわかるとは、どういう意味なのでしょう。とはいえ、ここで議論は、「XをYとして扱うためには、『事実としてのYとは何か』が理解されていることが必要である」ことを根拠に、「XをYとして扱うべきだという主張は、『Xは事実としてYである』ということを根拠としている」という一般的な命題を導き、それをトランス女性のケースに当てはめるものであると整理することができそうです。
 ところが、この形式的な分析は支持できないように思われます。「XをYとして扱うべきだと主張は、『Xは事実としてYである』ということを根拠としている」という途中で登場した命題が、支持しがたいものだからです。たとえば、私たちはいくつかの場面で、企業などの団体を人として扱い、財産権などの権利の主体として扱うことがあります(「法人」という考え方です)。言い換えれば、この社会には(いくつかの場面で)特定の団体を人として扱うべきだという規範が存在していることになります。しかし、この規範が「事実としてそれらの団体が人である」ということを根拠としているとは思えません。

「トランス女性は女性である」は概念の変更を求める規範的主張である

 さらに、三浦氏の議論には全体にわたってもうひとつ問題があるように思われます。それは、「女性として扱う」という概念が記述的に定義されるものであることを前提していると考えられることです。
 先日の記事でも言及したように、「トランス女性を女性として扱うべきだ」という規範は、既存の「女性」という概念を変更すべきだということを主張しているように思えます。規範的なルールの中で使われる言葉の解釈については、しばしばそれ自体の規範的な望ましさが問題となります。たとえば、裁判所が法律の条文を解釈するときには、その言葉の社会における使われ方だけでなく、その言葉の意味をどう定義することによって望ましい条文の解釈ができるかが考慮されます。法律に限らず、規範的な規則を解釈するときには、言葉の意味を記述的にのみ捉えようとすることは不適切です。したがって、「トランス女性は女性として扱われるべきだ」と主張されるときの「女性として扱う」に含まれる範囲も、それ自体が規範的な観点から(たとえば功利主義的な観点から)決められるべきなのだと思います。
 したがって、「トランス女性は女性として扱われるべきだ」という規範を理解するために「女性として扱うとはどういうことか」を理解する必要があるとしても、「女性として扱うとはどういうことか」をどう理解するか自体が規範的な問題であるために、話は事実には戻らないように思われます。

おわりに

 この記事では、三浦の議論が2つの問題ある主張を含んでいると論じました。それに加えて、「女性として扱う」という言葉の定義が記述的な問題である」という前提も妥当でないと主張しました。
 本当は20日の討論会に出席して直接質問をしたかったのですが、予定が合わず残念です。盛会をお祈りします。 

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