ありがとう、プリンス

【エッセ・メモワール】4–(2).二〇一六年四月二一日(金) 

 プリンスが亡くなった。寝不足の朝、BBCのニュースで知った。
 複数の病気を抱えていたけれども、死因は月曜日の解剖まで不明という。

 本格的な活動再開の一報を受け、喜んでいた矢先のことだった。Live活動を再開するも、杖を片手に移動と痛々しい姿であったことも逝去のニュースで知った。

 プリンスの活動再開は、ほんとうに心はずむニュースだった。プリンスは、いつでも過去の事故を壊しながら、前に進みつづけ、ポピュラー音楽シーンに新たな風を巻き起こしてくれる天才だったからだ。「オルタナティブ」ももう新しいものが出てこない。世界ツアーは、老人バンドの懐メロばかりという現在の停滞を打破してくれるかもと期待していた。


 わたしは、熱心なプリンスファンではない。ずいぶんと長いこと忘れていた。
 それでも、その才能にはいつも尊敬と感服の念を抱いていた。

 プリンスもまた、Fleetwood Macほどではないにせよ、日本で不当に評価されてきたアーチストだった。

 確かにプリンスは日本でも大ヒットした。でもそれは、ディスコやクラブ、ダンス・ミュージックの流れのなかで、The Doobie Brothersからマイケル・フォーチュナティほかのユーロ・ビート出現の隙間で、陽気に朗らかに受け入れられたに過ぎない。

 プリンスは、マイケル・ジャクソンとほぼ同時期に、1980年代前半をピークに、「黒人ロック」の行方を模索して、成功を収めた。

 マイケルほどに、自らのアフリカン・ルーツに意識的であったかどうか。それでもネグロイドのミュージシャンが、ブルーズやR&Bから脱却し、新たなポピュラー音楽を模索する道程は同時代で並行していた。

  日本でプリンスが本格的に紹介されたのは、アメリカでのブレイクより遅く、アルバム『パープル・レイン』(1984)のファースト・カット・シングル«When Doves Cry»からだった。アメリカではすでに熱狂的な支持があったから、同タイトルの映画が制作できるまでになった頃だ。時は、12”レコードのブーム。日本で目利きの洋楽導入の媒介者は、ターン・テーブルを回すDJたちが目立っていた。だから、«When Doves Cry»も、数々の一発屋ダンス・ナンバーと一緒くたに最初は日本に入ってきた。もちろん、なかにはマドンナ«Borderline»ほか輝くものもあったけれども。

 わたし自身も、小林克也の『ベスト・ヒットUSA』で、83-84年にかけての頃に初めてプリンスのPVを観た。紫のスーツに身を包み、大型バイクに跨がるその異様な姿。でもそれ以上に、«When Doves Cry»は、リズムをはじめ、斬新な音楽性に満ちていて、しかもメロディアスで一度聴いたら耳から離れない名曲だった。

 残念ながらこの曲は「ビートに抱かれて」という邦題で、ターン・テーブル上の12”レコードたちとごたまぜで売り出された。


 
 遡って、『1999』を聴いた。«Little Red Corvette»をはじめに、名曲ぞろいのなか、そこには「ロック」が満ちていたことに驚いた。
 ジミヘンの後、黒人ロックを忘れていた。

 しかも、ブルーズやR&Bの薫りが、黒人音楽に憧れて成長していった白人ロック・バンドほどもない。

 そうか、プリンスとは、新しいロックを目指しているアーチストで、1983年からプリンス&ザ・レヴォリューションとなっていたユニットは、ロック・バンドなのかと思ったら、すぐに自分の勘違いに気づいた。


 次作『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(85)は、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』なみにハチャけた、無茶苦茶な祭りだった。

 世界中から音階やリズム、音源を集めた「ワールド・ミュージック」のようであり、でもそんな音楽は世界のどこにもない。しかも、アルバムとしての統一感が素晴らしい。とくに中心となる曲はないのに、アルバム全体、バラバラの曲がひとつとなって、躁状態の興奮のように叫んでいた。

 ブライアン・イーノのように、ポピュラー音楽そのものを変革しようという、いつでも<実験>、それでもひとりよがりではない、素晴らしい天才だと思った。


 R&Bや、80-90年代のダンス・ミュージックにまったく無関心だったわけではない。

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