【ア・冬優子イズム】雑感
きちんとまとめる労力を惜しむため、雑感として自由に書いていきたい。黛冬優子(と幽谷霧子)を体系として捉え、吐き出す記事は別途検討中である。
本記事は、【浮遊回帰線】及び【ア・冬優子イズム】のネタバレを含みます。
まず、この【ア・冬優子イズム】登場にあたり事前に考えていたこと。
・【ザ・冬優子イズム】があるので、冬優子の中にある「イズム」が寧ろ普遍化、陳腐化し、高い評価を得るからこそ、「自分とは」というようなものに苦しむコミュになるのではないか。
・あるいは、そうした普遍化したイズムを投影したような者(ファン)が現れ、冬優子が自己を第三者的に見ることになるのではないか。
「三人称虚数」はまさにそんなコミュだった。「ザ」が「ア」になるように、"I"が虚数単位である"i"になる。固有名詞は解けて、ファンやスタッフから見た冬優子から見る姿と、冬優子自身の姿が異なることを浮き彫りにさせる。「本物の冬優子に迫るようなデザインが欲しい」というオーダーには、実は裏テーマがあって、冬優子とプロデューサーにはそれが伝えられない。アイドル「ふゆ」は、冬優子自身にとっても三人称化し、スタッフの「虚」と冬優子の「虚」が交わるのみである。
冬優子は忙しい中にあってもデザインをすることを決意する。ここでデザインするのが「水着」というのが面白い。ステージ衣装や洋服ではなく、水着はまさに肉体を象るものだ。冬優子が「ふゆ」であろうが、「冬優子」であろうが、または別の役を演じようが、常に肉体は同一で、それぞれの人格があったとしても、記憶は等しくその肉体に刻まれている。その記憶の塊、「黛冬優子」でしかない肉体を、水着のデザインによって輪郭づけるのである。使い分けも、役も全てひっくるめた総体としての自己と向き合う中で、何を見出していくのか。
デザインに行き詰まるシャニPが与えたヒントは3通り。それが何を意味するのか、はっきりするところではないけれども、ともかくも冬優子は、自分が「こう」だと思うデザインを完成させる。
しかし。そこにある視点は、必ずしも冬優子の視点だろうか。わからない。シャニPは、「ノンセンス」にも冬優子をアイドルとして見つめ続けているが、ファンでありながらファンこ視点とも違う。デザインを仕上げたとき、家にいたが、家の中の視点もまた、アイドル性とは異なる。誰の視点で、となれば、いずれは自分で見るしかないのだろう。
果たして撮影は、順調に進む。
虚構の海であるプールの中に、プロではないアイドルがデザインした水着を纏い、嘘の存在であるアイドルが立つ。スタッフはそこに逆説的な「実」を見出そうと実験する。
水は、(これは【浮遊回帰線】からのインスパイアだが、)余白を埋める。嘘を「異化」して生きる冬優子にとって、水の中では水に「同化」し、息が詰まる。日焼け止めは洗い落とされ、肉体が水に触れ、水じゃない部分は肉体でしかなくなる。他人との間にある酸素を、嘘にして纏える冬優子にとって、水中は天敵だ。【浮遊回帰線】でも、何故か水中には素の冬優子の声がこだまし、水に洗い落とされたあとの冬優子の表情に、カメラが向く。
だが、今回はプールだった。海と違って偽物だ。海は永遠だが、プールは永遠じゃない(元々、アルチュール・ランボーの「見つけた〜」のくだりで永遠とされているのは海と太陽が交わる瞬間である。)。その表情は、「妖艶」と称されたが、これは奇妙である。心惹かれるは、【浮遊回帰線】の表情ではなかったか。また、カメラに収められなかった幻のショットに映ったのは、一体どこまで洗い落とされたものなんだろうか。
Trueでは、恐ろしい、趣味の悪い描写が描かれる。指示と方向転換を誤った作業者が事故を起こす。冬優子は、「ファンが望むなら」「これでいい」と言っているのに。根源的な冬優子の声が聴こえる。幼い声だ。あのとき、「こうやって生きていこう」と決めた頃の、「イズム」を固めた頃の声だ。そのイズムは、危機に瀕している。
「アイドル」として壊れるなら、シャニPがいる。それは、【ノンセンス・プロンプ】で結実したことだ。
一方で、黛冬優子という人物が壊れたら。その答えはまだない。
「イズム」がない人物に、人は振り向くだろうか。「イズム」を失っても、自信を持って前に進めるだろうか。もう一度海に出たら。今度は水に引き込まれて、完全に息を止められてしまうかもしれない。
その前に、肉体の中に「イズム」を収めて、息ができるようになりたい。
その助となるは、おそらくシャニPではない。【ノンセンス】が美しすぎたからだ。こっちも直せるなら、むしろアイドルをあれほどまでに生かせる男ではなくなってしまおう。なれば、ストレライトか、家族か。はたまた別のユニット、仲間。どこにヒントがあるだろうか。
冬優子は改めて「自覚」する必要がある。自分が何者なのか。自分が他人に与えている影響は、全て同一の肉体から生まれていると。
これからのコミュは、そうした「自覚」を呼び起こすコミュになるだろう。溶けた「イズム」をもう一度固められるように。
その行く末を見守りたい。