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「分析的ヒューム研究」趣意文(高萩智也)【フィルカルVol.9,No.1より】

1 企画趣旨

本企画は、18世紀スコットランドに生まれ育ったデイヴィッド・ヒューム(1711–1776)の哲学と、20世紀初頭に誕生して以来英語圏を中心として発展してきた分析哲学とを横断的に論じることをねらったものである。
今回、この目的のために三人のヒューム哲学の研究者が集まって、それぞれ論文を書いている。
ここで簡単にではあるが、企画者である私(高萩)が代表して、本企画の趣旨を述べておく。

ヒュームの哲学がその後の哲学界全体に影響を及ぼしてきたことは、論をまたない。
なかでもその分析哲学に対する影響力は群を抜いている。
分析哲学が誕生したと言われる20世紀初頭から現在に至るまで、分析哲学者たちはしばしば、自身の哲学的主張やアイディアの源泉をヒュームのテキストのうちに見出してきた。
実際、分析哲学のうちには「〇〇に関するヒューム主義」や「ヒューム的××」と名付けられた立場を数多く見かける。
他方でヒューム哲学の解釈研究(ヒューム研究)も、分析哲学から多大な影響を受けている。
よく知られた分析哲学者で、ヒューム研究でも功績を残した人は少なくない。
そうした人々は分析哲学の問題をヒュームのテキストに読み込んで、それがいかに答えうるかを盛んに議論してきた。
この種の営みが時に時代錯誤的になることはあっても、結果としてヒューム研究を進展させてきたという事実までは否定できないように思われる。
このようにヒュームの哲学/ヒューム研究と分析哲学は、相互に影響しあいながら発展してきたと言える。

では、なぜまたここでも、ヒューム哲学と分析哲学を横断的に論じようとするのか。
それはやはり、これまで横断的に論じることによって両者が発展してきたなら、今後もそれが期待できるからである(もっとも、これは「未来は過去に類似する」という思い込みに過ぎないかもしれないが)。
ヒューム哲学の研究者にとって、分析哲学者たちが目下関心のある問題にヒュームのテキストがどう答えうるかを考えることは、それまで注目されてこなかったテキスト箇所に新たに注目したり、あるテキスト箇所に関する固定化された解釈を疑ったりするきっかけとなる。
これは新しい解釈や研究潮流へとつながるだろう。
他方で分析哲学者たちにとってヒュームのテキストは、自分たちが論じている問題やそれに対する答えを相対化したり、その問題に関する新しい視座を与えてくれたりすると期待できる。

本企画の寄稿者たちはいずれもこのような期待を持ち、それぞれの論文のなかで、ヒューム哲学と分析哲学の研究の両者に貢献することをねらっている。
私たちはなるべく多くの人に関心を持ってもらえるような仕方で書いたが、どの論文もヒューム哲学や分析哲学についていくらかの前提知識を要求するものとなってしまった。
これは素直に認めておきたい。
しかし哲学をこれから勉強したいと思っている人にも、果敢に挑戦してほしいと願っている。
関連する分野の入門書やヒュームの著作を傍におけば、どれも読めないものではない。
それぞれの論文は内容に関して独立で、好きな順番で読み進めてもらってもいい。
議論にスムーズに入ってもらえるように、それぞれの論文の内容を私が以下で簡単に解説している。
概要を読んで気になるものを見つけて欲しい。

なお、本企画の論文はどれも、慶應義塾大学言語哲学研究会主催のワークショップ「ヒュームと分析哲学」(2023年12月、於・慶應義塾大学三田キャンパス)での発表がもとになっている。
開催に協力してくださった関係者と、参加者の皆様に感謝申し上げる。

2 各論文の紹介

鵜殿憩「ヒュームの社会的認識論とアクラシアの問題」

鵜殿の論文は、ヒュームの認識論を手がかりにして「認識的アクラシア」の成立可能性を擁護することを目的としている。
怒鳴ってもいいことがないとわかっているのに、ついカッとなって怒鳴ってしまう。
歯を磨かないと虫歯になることがわかっているのに、ついサボってしまう。
こうした現象は「アクラシア」と呼ばれる。
最近、このアクラシアが認識の場面でも存在しうるかどうかが問題になっている。
もし存在しうるなら、正しいことが何かをわかっているのにそこから目を背けて違うことを信じてしまうことがありうることになる。
しかしこう主張することには、一見したところ困難が伴う。
私たちは目の前に赤いコップがあれば「目の前に赤いコップがある」と思うし、風が吹いていつも桶屋が儲かっていれば「風が吹けば桶屋が儲かる」と考える。
認識は行為とは異なって制御の余地がないように思われるのだ。
これに対して鵜殿は、現代認識論の議論を手がかりに、認識に「信念」と「憶測」という区別を導入する。
憶測とは、証拠が不十分な段階で出された暫定的な結論のことである。
この憶測を出すためには能動的な決断が必要であり、憶測はそれによって制御可能な営みとなっている。
鵜殿によればヒュームの認識論は、私たちが適切な憶測をし損ねるという認識的アクラシアの存在を適切に説明できる。
ヒュームの議論からは、認識的アクラシアの成立を是とする見解が導かれるのである。
アクラシアの問題や、広く社会認識論に関心のある人は興味を持って読み進めることができると思う。

高萩智也「「誇り」とは何か――デイヴィドソンのヒューム“解釈”を擁護する」

高萩の論文は、誇りをめぐるヒュームの議論を再解釈し「誇りの認知理論」と呼ばれる見解を提案したドナルド・デイヴィドソンの議論を検討するものである。
誇りという感情は、哲学者たちによって古くから議論されてきた。
なかでもヒュームの議論は、誇りの本質をついた優れた洞察を含むものとして、しばしば参照される。
しかし実は、ヒューム自身が誇りについてどのように考えていたのか、わかっていないことも多い。
このような状況のなかで高萩は、「誇りの認知理論」の“解釈”としての優れた点を見出そうとしている。
この理論によれば、誇りの理由となる特定の賛成的態度と信念のペアは同時に誇りの原因でもある。
デイヴィドソンの哲学に少しでも触れたことのある人なら気づいたと思うが、誇りの認知理論は行為の因果説の枠組みを誇りの感情へと適用しようと試みたものに他ならない。
この誇りの認知理論は誇りに関してヒュームが提示した優れた洞察を無下にしているとして、ヒューム哲学の研究者たちから、折りに触れて批判されてきた。
しかし高萩の議論が正しければ、デイヴィドソンの“解釈”に対するいくつかの批判は彼の議論の誤解にもとづいている。
誇りの認知理論は、誇りの本性に関してヒュームが提示した優れた洞察を的確にくみとっているのである。
デイヴィドソンの哲学や、誇り、あるいは感情や情動一般に関心がある人には面白く読めるはずである。

相松慎也「ヒュームの道徳的錯誤説――概念と実質の齟齬を経験論的に構成する試み」

相松の論文は、現代のメタ倫理学における道徳的錯誤説を概説し、その上でヒュームの道徳哲学をひとつの道徳的錯誤説として再構成することをねらったものである。
分析哲学の一分野とされるメタ倫理学では、私たちの道徳実践を文字通りメタな仕方で考察する。
例えば「道徳的な善悪はどのような性質か」、「ある行為を道徳的に「よい」とか「わるい」と判断する時、私たちはそれによって何を意味しているのか」、あるいは「そもそもなぜ私たちは道徳的でなければならないのか」といった問題が扱われる。
道徳について考えたことがある人なら誰でも、一度はこのような問いにぶつかったことがあるのではないだろうか。
道徳的錯誤説とは大まかに言えば、概念上、道徳判断は人々のふるまいの「客観的な是非や善悪」に関する判断であるが、実際のところ、客観的な是非や善悪なるものはこの世界に存在し得ないため、私たちの道徳判断は決して正しくはあり得ない、と主張する立場である。
一見もっともらしくないように思われるこの立場だが、実は古くからこれを支持する論証がある。
相松は道徳的錯誤説を支持する有力な論証を紹介しつつ、それと驚くほど近似した立場を経験論的な前提にもとづいたヒュームの道徳哲学に読み込んでいく。
道徳的錯誤説に関心がある人にはもちろんのこと、私たちの道徳実践に疑念を抱いている人にこそ、ぜひ読んでもらいたい。

3 ヒュームと分析哲学というテーマの難しさ

「〇〇と分析哲学」というテーマで過去の哲学者と分析哲学とを横断的に論じることは、アナクロニズム・時代錯誤を犯すことと常に隣り合わせである。
ここに「ヒューム」が入った場合、時代錯誤を犯さずに議論を進めることはとりわけ難しくなると私は考えている(もちろんそれは無理ではないし、実際に時代錯誤を犯せば研究者はそのことによって批判されるべきである)。
それには、ヒューム研究と分析哲学研究が互いに影響を与えながら発展してきたということ以上の理由がある。
この理由を最後に述べておきたい。

ヒューム自身の文章に少しでも触れたことのある人ならば分かるとおり、彼の文は非常に読みやすい。
歯切れが良く、文構造も比較的明確である。
近世哲学に特有のいくつかの語彙を除けば、難解な術語も出てこない。
実際、著名な小説家であるサマセット・モームは回想録『サミング・アップ』において、ヒュームの文章を次のように評している。

ヒュームの思想を理解するのは難しいかもしれないし、哲学の素養がなければ、彼の思想の細かい含蓄まではもちろん把握できないであろう。
しかし、およそ教育のある者なら、ヒュームの個々の文がどういう意味であるのかは、きちんと理解できるはずである。

サマセット・モーム(2007)『サミング・アップ』行方昭夫(訳)、岩波書店、40-41頁.

他方でヒュームの文章は、次のようにも評される。

〔ヒュームは〕非常に様々なことを非常に様々な仕方と様々な繋がりの中で述べるだけでなく、自分が以前に言ったことに関して非常に無頓着なので、この説をといたとかあの説をといたと積極的に述べることは困難を極める。

Selby-Bigge, L. A. (1894). “Editor’s Introduction,” in David Hume, Enquiries concerning Human Understanding and concerning the Principles of Morals, 3rd edn., ed P. H. Nidditch (Oxford: Oxford University Press, 1975), p. vii.

ヒューム研究者であるセルビー・ビッグの手によるこの文章は、ヒューム研究者にはおなじみのものである。
この特徴は、先にモームを引いて述べた「個々の文の意味は明確である」という特徴と両立する。
むしろ個々の文の意味が明確であるだけ、全体でこれを主張したとかあれを主張したとか解釈することが難しくなるとさえ言えるだろう。

これらの二つの特徴が解釈者を惑わせるということは、他人の書いた文章を理解しようと試みたことのある人なら誰でも、ある程度想像のつくことだと思われる。
全体で何が主張されているかをある程度決め打ちして、それと合致する個々の文をピックアップしていく。
あるいはその主張に合致するように個々の文に含意を持たせていく。
分析哲学と相互に影響を与えながら発展してきたヒューム哲学の研究をするにあたって、時代錯誤を犯さずにこれをやり遂げることは大変難しい。
というのも、ヒューム哲学の研究者にしろ分析哲学の研究者にしろ、ヒュームのテキストに向き合う人々のうちに分析哲学の問題意識や議論の枠組みがある程度備わってしまっているからである。

もちろん、だからと言って開きなおっていいわけではない。
時代錯誤を犯さずにヒュームのテキストに向き合うためには、読み手が少なくとも次のことを意識的に区別する必要があるだろう。
それすなわち、①ある文や文章を書いたヒュームの意図や問題意識、②そこで実際に主張されている内容、③それが含意・示唆している主張やアイディア、である。
これらを腑分けせずにヒュームのテキストに向かうと、彼が問題にしているはずもないことを問題にしていると言ってしまったり、持ち合わせているはずもない前提を持ち合わせていることにして解釈を進めてしまったりすることになる。
しかし、もしこの腑分けをきちんと行えば、ヒュームのテキストは今後も分析哲学に対して視座を与え続けてくれるだろうし、分析哲学の研究成果を取り込んだヒューム研究にもさらなる発展が期待できるだろう。

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高萩智也 Tomoya Takahagi
慶應義塾大学通信教育部、及び、高崎経済大学経済学部非常勤講師。
専門はヒュームの哲学・倫理学。
主な論文に、「ヒュームにおける「行儀の規則」」(日本哲学会『哲学』、2024年近刊)、「ヒュームにおける「真理愛」と哲学探究」(イギリス哲学会『イギリス哲学研究』、2024年近刊)がある。 

note掲載にあたり最低限の修正を加えました。(フィルカル編集部)

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