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【試し読み】過去と哲学へのセンス――B・ウィリアムズ、M・F・バーニェットとプラトン(納富信留)

バーナード・ウィリアムズ

編集者からの原稿執筆依頼に「ウィリアムズの孫弟子にあたる納富先生」という文言があり、驚愕した。私の指導教授であったマイルズ・バーニェットをギリシア哲学研究に導いたロンドン大学での師匠がバーナード・ウィリアムズである以上、「弟子の弟子」という形で私は弟子筋にあたるのだろう。驚いたのは、そう考えたことが今まで一度もなかったからである。

1991年夏から1996年夏までイギリス・ケンブリッジ大学に留学していた私にとって、1990年にアメリカからイギリス・オクスフォード大学に戻っていたウィリアムズに接する機会は、求めれば多くあったはずである。だが、私が彼のレクチャーを聴いたのは、昔のノートを調べてみると、ケンブリッジで開かれた2度の講演会だけであった(実際には、これ以外にもケンブリッジで講演していたことが判っている)。最初に彼の姿を見たのは、1992年10月26日に開催された古典学部Bクラブ(哲学部門)の講演会、そして1993年5月5日から7日まで3日間開催された連続講演会である。

後者は「誠実さについての3つの講義 Three Lectures on Truthfulness」と題されており、主催や会場の記録はないが、夕方5時から1時間程度の講義だった。トゥキュディデスに始まり、ディドロ、ルソーなどを論じてニーチェで終わっている。2002年に出版される晩年の主著『真実と誠実さ――系譜学の一論考 $${Truth}$$$${and}$$$${Truthfulness:}$$ $${An}$$$${Essay}$$$${in}$$$${Genealogy}$$』に結実する考察だったはずである。だが、私にあまり強い印象はなく、むしろ初めて彼の姿を見た1992年の講演会ばかりが記憶に残っている。

『真実と誠実さ――系譜学の一論考』(2002)

古典学部Bクラブでのゲスト講演は、古いカレッジの一室で夜8時45分から始まり10時半過ぎに終わる。マデイラ酒を片手に薄暗い部屋の椅子で聞いた能弁な議論は、しかし私にあまり良い印象を残していない。タイトルは「異教徒の正義とキリスト教徒の愛Pagan Justice and Christian Love」で、翌1993年にグレゴリー・ヴラストスへの追悼論文集に収められた論文の原稿であった(『過去の感覚』第4章に所収)。プラトン『クリトン』からアウグスティヌスに及ぶ広大な視野の議論は、渡英1年ほどだった私にはほとんど理解できなかった。難しかった、のだろう。しかし、それ以上に、あまり印象が良くなかった。私が習っていたギリシア哲学研究者たち、バーニェット、ジェフリー・ロイド、マルコム・スコフィールド、デイヴィド・セドリーらが所属していた古典学部で、ウィリアムズはなんとも気取ったパフォーマー、つまりギリシア語やラテン語をふんだんに引用して知見をひけらかすような、場違いな弁論家に見えた。何もわからぬ大学院生の当時の印象を想い出して、失礼を承知で語ると、そんな風になる。「場違いな」と言ったのは、古典学者たちの謙虚ながら溢れる博識とは何か違う、ややあざとい鋭気を感じたからだと思う。

私の記憶が間違っていなければ、講演に対する聴衆の反応も、それほど芳しいものではなかった。少なくとも、熱狂や称賛というものとは程遠かった。冷たいと感じられたかもしれず、ウィリアムズにも不本意だったかもしれない。

私の師匠バーニェットもその場にいた、いや多分質問もした、と思う。だが、2人で話しをするわけでもなく、私を紹介してくれるでもなく(これは大体いつもそうだった)、冷たい応対だと思った。後でその場にいた仲間から、2人は仲が悪い、いや喧嘩しているのだ、といったゴシップを聞いた。真偽のほどは全くわからないが(この度、記憶を確かめようと思い、当時の仲間ヴェリティ・ハートとメリッサ・レインに問い合わせたが、彼女たちはそんなことは知らないと言っている)、私は確かにその時、なるほどと得心した。そこで語られた不和の原因は、たわいないものである。

バーニェットは20年以上かけてプラトン『テアイテトス』の「イントロダクション」という研究論文を仕上げて、定評あるM・J・レヴェット訳に手を入れた英訳に付けてハケット社から1990年に公刊した。『テアイテトス』篇全体の読み筋を、248ページにもわたる異例の序論で世に問うた、満を持しての成果である。私たち研究者は狂喜した。だが、出版社にとっては、どうやら全く不本意だったらしい。一般向けのプラトン英訳シリーズの一冊が、対話篇本文よりも長い本格論考付きでは、一般読者にはあまりに不親切で、使えない。そうして、同じ翻訳に付す別の解説が書かれた。わずか14ページの新しい「イントロダクション」が、同じ装丁の薄い冊子に収められた。刊行は1992年10月15日である。まさに簡にして要をえた見本のような序文は、よりによって、バーニェットを『テアイテトス』研究に導いた師匠、バーナード・ウィリアムズによって書かれていた。不愉快!に思って当然である。編集者の期待に応える能力をこれ見よがしに見せつける、そんなパフォーマンスに見えたのかもしれない。無論、人々はこちらの簡略版を買い求めた。

バーニェットとウィリアムズの『テアイテトス』

この一件で人間関係が険悪になったというのは、たんなるゴシップにすぎないかもしれない。だが、私は師匠の敵愾心を、無言の冷淡さから受け取ったように感じていた。「子供っぽい」と言えばそれまでだが、ウィリアムズ自身も古巣ケンブリッジの隣りの学部で、身構えたアウェー感を醸し出していた。彼の姿を見たのは、そんな暗い部屋である。私がそのウィリアムズの「孫弟子」であると考えたことが一度もなかったのは、その初対面の記憶による。

イギリスに限らず、個性的な哲学者の間では個人的な仲違いや確執がしばしば生じ、後の時代からは残念だったと思われることが多い。その後の2人の関係は定かでないが、ウィリアムズが2003年6月10日に73歳で死去して3年後、2006年春にバーニェットが編集した『過去の感覚――哲学史論集$${The}$$$${Sense}$${of}$$$${the}$$$${Past:}$$ $${Essays}$$$${in}$$$${the}$$$${History}$$$${of}$$$${Philosophy}$$』がプリンストン大学出版局から公刊された。バーナード・ウィリアムズが生前自ら企画して進めていた古典哲学を中心とする哲学史の論文集が、突然の死去に伴い、バーニェットに委嘱されて編集されたのである。

『過去の感覚――哲学史論集』(2006)

未公刊論文を含む全25章からなる本書に、妻パトリシア・ウィリアムズが「序言」を寄せ、マイルズに対して「バーナードが今日古典哲学の分野で彼以上に称賛し敬意を払う人はいない」と謝辞を記した。その通りであろう。マイルズは文句ない仕事で、恩師のかけがえのない作品を完成させたのである。

その「イントロダクション」でマイルズは、所収論考の解説とともに、バーナード・ウィリアムズの哲学とは何だったのかを、彼の生涯とともにこの上もない適切さと、滲み出る敬意をもって記している。そうしてマイルズ・バーニェットは弟子としての責務を果たし、2019年9月20日に80歳で死去した。師匠の死の16年後、7歳ほど長生きした。

マイルズ・バーニェット

私はマイルズ・バーニェットの弟子である。だが、弟子であるとはどういうことか。彼が師匠ウィリアムズから受けた決定的な影響、つまりプラトン哲学に導かれるといった人生の転換を経験したわけではなく、目にみえる形で思想や手法や立場を受け継いだわけでもない。そもそも私は、すでに日本で培っていた『ソフィスト』篇読解の新しいアイデアを携えてマイルズのもとに参上した。私たちの間にあった師弟関係は、学期中2週に1度ほど、アダムズ通り5番地にあるロビンソン・カレッジの彼のオフィスで会い、私が書いて提出した原稿を一緒に議論する、それだけであった。

だが、5年ほどともに過ごした時間で、私は一つ、おそらく決定的に大切なセンスを得た。受け取ったというより、ともに感じる経験を得たのである。センスとは何か、言葉で十分に言い表せないが、それはまず、問題を嗅ぎとり精確に取り出す感覚である。さらに、広い視野で見渡された洞察、鋭い指摘と的確な言語化、そして何よりも思考の美しさと魅力である。マイルズを通して私がバーナードから受け継いだものがあるとしたら、もしかしたら、その感覚かもしれない。

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納富信留 Noburu Notomi
東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は西洋古代哲学、西洋古典学、世界哲学。著書に『ギリシア哲学史』(筑摩書房、2021年)、『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)、『世界哲学のすすめ』(ちくま新書)、訳書にプラトン『ソクラテスの弁明』『パイドン』(光文社古典新訳文庫)など。

ブログ転載にあたり、必要最低限の編集を加えました。
(フィルカル編集部)


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