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「ゲーム音楽ディスクガイド」への異論

去る2019年9月21日、新宿で「ゲーム音楽ディスクガイド」発売記念トークショーが開催された。このトークショーでは「ゲーム音楽ディスクガイド」の執筆陣(以下「彼ら」と表記する)から様々な話を聴くことができたのだが、終了後の帰り道でどうにも拭えない違和感を感じたので、それらについて述べてみたいと思う。
(そういうわけで、以下の文章は件のトークショーのレビュー記事ではない。そういう内容を期待された方はここでお戻りになっていただいて構わない。)

トークショー全体の印象として感じたのは、「彼ら」は基本的に音楽マニアであって、その好みがたまたまゲーム音楽とテリトリーがマッチしていただけなのだ、ということである。そう思わざるを得ないほど、件のトークショーではゲームの内容についての言及がまったくなかった。はたして、彼らが語る「ゲーム音楽」は、なにゆえに "ゲーム" 音楽と呼ばれているのか。トークが進むにつれて、そんなかなり根源的なところにまで疑問を巡らせなければならなかった。

音楽的観点からゲーム音楽を評価する、という「彼ら」の姿勢を全否定するつもりはない。ゲーム音楽とて(当然ながら)音楽の一種であるのだから、それを音楽的観点で述べるということ自体はまったく問題はない。むしろ、今までそういった観点を徹底的に貫いてゲーム音楽を評価するという試みは数少なかっただけに、新しいゲーム音楽の評価形態として支持したい気持ちはある。

だが、当日頒布された「ゲーム音楽レヴュウ」創刊号の序文を読んだ時に、引っかかるものがあった。何となく、「プレイヤー視点からの主観入りまくりのベッタベタなゲーム音楽語り」に対して辟易しているような、一種のアレルギー反応的なものを感じたのである。たしかに、「彼ら」のゲーム音楽に対する姿勢からすれば、そういう主観や思い入れの入ったレビューは音楽のレビューにあらず、ということなのであろう。しかし、そういったアレルギー反応的なもののせいなのかもしれないが、「プレイヤー視点からの(以下略)」的なレビューが主観の極論だとすれば、「彼ら」のレビューもまた客観の極論になっているように思えるのだ。例えるなら、前者は愛妻の素晴らしさをひたすら語るノロケである。対して後者は、容姿端麗な女性を見た目で愛でるだけ、という大学祭のミスコン的なものであると言えよう。ノロケは興味のない者にとってはうっとおしいばかりだが、見た目だけで女性を評価するというのは情のない行為である。

繰り返すが、私は「彼ら」の姿勢を否定したいわけではない。ただ、その姿勢はある意味極端であり、ゲーム音楽の評価形態の主流とせんとする試みにはいささかの異論を唱えたいのである。

私もゲーム音楽を愛好する端くれとして、それなりの数の作品を聴いてきた。だが、それらのうち実際にプレイしたことのあるゲームはそのうちの1割にも満たない。ほとんどはまったくプレイしたことのないゲームの音楽ばかりである。そういう点では、私の嗜好は「彼ら」のそれに近いものなのだろう。だが、私は「なぜゲーム音楽が好きなのか」と問われたら、音楽的観点云々は置いて「ゲームと共にある音楽だから」だと答えるだろう。正直なところ、私は音楽的な知識や素養がまったくないので、自分が好んで聴いているゲーム音楽が音楽的にどうカテゴライズされるかなどはほとんど理解していない。それでも、私はゲーム音楽を愛してやまない。なぜだろうか。

ゲーム音楽は、まことに特殊な音楽ジャンルである。単なるインストでもなく、劇伴とも違う。既存の音楽ジャンルの要素を様々に持ちながら、やはりゲーム音楽はゲーム音楽と言わざるを得ない何かを持っている。そういう特殊性を醸し出しているのは、やはりゲームとの関係性があるからこそだと私は思う(チップチューン的な理由もあるとは思うが、ここでは置いておく)。

まったく未プレイのゲームの音楽を聴く時、私はそれがどういうゲームであるかということを想像しながら聴くようにしている。ライナーノーツや各曲のタイトル、興味が増したら公式サイト等を見て、その音楽がどういうゲームと、どんな場面と関係を持って生まれてきたのか、それを考え、思い描きながら聴く。前述のとおり、私は自分の音楽の好みがどのようにカテゴライズされるかまったく知らないので「この曲は音楽的にこれこれこうだからいい」みたいなことはほとんどわからないし語れない。それでも、ゲームとの関係性を考えることで、各曲に対するイメージが膨らみ、理解を深めることはできる。「この曲、かっこいいなあ」というプリミティブな印象に、「どんな場面なのかなあ」という想像を加えることで、その曲はさらに魅力を増すのだ。これこそが「ゲーム音楽=ゲームと共にある音楽」の醍醐味だと私は信じている。

音楽的観点からゲーム音楽を評価する、という「彼ら」の姿勢は支持する。もし自分にも音楽的な知識や素養があれば、もっとゲーム音楽を深く理解し、語ることができるだろうから、そういう評価ができることはうらやましいとも思う。だが、それだけではゲーム音楽を語るには足りない、というか寂しいような気がするのだ。ゲームをプレイしたことがない人には理解しきれないノロケのごときレビューもどうかとは思うが、好きなゲーム音楽についてはある程度ゲームに対する情を持って語る、ということは決して悪いことではないのではあるまいか。

「ゲーム音楽ディスクガイド」のように、1つのタイトルについて厳しい字数制限があるのであれば、たしかに音楽的観点で述べるのが精一杯であろう。というか、ディスクガイドという役割からすれば、先入観をなくして読者に情報を伝えることができるから、むしろその方がいいのだとは思う。だが、件のトークショーでも感じたように、音楽的観点のみで語られても「じゃあ、ゲームの存在はどうでもいいわけ?」という寂しい疑問がわいてくるのである。

田中"hally"治久氏は、ゲームに対する主観を排除してできるだけ客観的な立場からゲーム音楽を評論しようという強い意識を持っているようだが、客観にこだわるあまりゲームの存在まで切り捨ててしまうようなことは、できればしてほしくないと思う。それでは「ゲーム音楽」評論ではなく、ただの音楽評論になってしまうから。一方、「ゲーム音楽ディスクガイド」における糸田屯氏のレビューでは、ある程度ゲームの内容を把握した上でのものが散見される。私としてはそれくらいのテイストがゲーム音楽のレビューとしては望ましいのではないかと思っている。
(件のトークショーの後半、マニアックな音楽トークになるにつれて糸田氏の発言が極端に減っていったことは、ある意味象徴的であった)

なぜ私たちはゲーム音楽が好きなのか。
なぜゲーム音楽でなければダメなのか。
なぜゲーム音楽は「ゲーム」音楽と呼ばれているのか。

ゲーム音楽を語るとき、その理由を、心の片隅で問うてほしいと思う。

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