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教会の罪と記者の閾

 

 深圳への滞在は、思いのほか衝撃的な体験となった。 

 中国のキリスト教徒は推定9000万人、世界最大のキリスト教人口をもつ国になる日も近いとされる。近年の急増傾向を底で支えるのが共産党政府非公認・非合法の礼拝を続ける「家庭教会」の存在だ。知人の仲介を得て、これら家庭教会を幾つか訪ねてきた。

 今回の香港取材旅行はこれに限らず、人間の本来性をめぐる再考の機縁と化す予感がある。むやみに自分を忙しくしているきらいもないではなかった。が、行って良かった。

 なにを信じて生きるのもひとの自由だ。しかしその自由の価値をもて余し貶めた結果としての、いわゆる「先進国」を構成する人々の精神的自己崩落が進むさなかにおいては、伝統宗教の役割が自然と見直されざるを得なくなる。

 もちろん日本とアメリカとヨーロッパとでは、その崩落の形は各々異なる。ゆえに人心の向かうベクトルも外見上は時に逆をゆくよう映りもする。しかし頭では誰もがわかっていながら、トランプ現象があらためて驚かれ、ベルギーの爆破テロがISの望むように右旋回を今後生むことと、日本の福祉軽視や言説展開にみられる弱者排斥傾向とは完璧に同じ流れの別の貌だ。

 己の感じるままこそを無批判に優先しながら、事実行為として他者を切ることに無自覚であるよりは、覚悟を以って選択的であるほうがよほどマシだろうとこの自分には思えるが、ならば身近にも跋扈する自分の気持ち至上主義、快不快評価軸至上主義な人々にどう向き合うか。

 ここで見誤ってはいけないのは、これは徹頭徹尾“この自分”の問題だという。施された感性により世界を分節化し、都合よく事物を区切った帰結に過ぎない“この自分”への問いなのだという、この信じるに値する内面の真実だ。



 とまれ、おしなべていえば日本人が斜にかまえ軽んじるほどには、世界が宗教から離れずに今日も回ることは昨今の事象からも自明だろう。そうしたなかにあって、2002年以降全世界的に注目を浴びたカトリック教会の性的虐待事件をテーマとする映画『スポットライト 世紀のスクープ』が、この4月より日本で公開された。

 ことの発端は、ボストン・グローブ紙の新任編集局長が着目した、一人の神父をめぐる性的虐待疑惑だった。しかしこの疑惑について調査を進めるうち、記者らはボストンだけで十数人の神父が児童虐待に関与する事実を知る。そこからより綿密な調査と分析を重ねた結果、教会幹部による隠蔽工作の痕跡が次々と明らかになり、疑惑の対象となる神父の数は87人にまで膨れ上がる。グローブ紙はカトリック神父による性的虐待をめぐる記事を600本掲載し、疑惑の嵐は燎原の火のごとく全米へ、そして全世界へと波及した。事態はローマ教皇ベネディクト16世の退位要求デモにまで発展し、2014年の時点でアメリカ国内だけでも6000人を超える神父が起訴され、虐待の被害者側にカトリック教会が支払った賠償金は10億ドルを超えるに至った。

 こうして世界的な大スキャンダルへと発展したこの事件そのものを記憶する者は日本でも多いだろう。このため「なぜいまさら」と思われる向きもあろうが、本作『スポットライト 世紀のスクープ』の特徴は、長年にわたる虐待と隠蔽の実態が明るみに出る過程を詳細に描いた点にある。子供は親が正しいとする聖職者の要求を断れない。心の傷を抱えたまま大人になった被害者を、彼らの弁護人は「むしろ良いほうだ」とさえ形容する。なぜなら大人になる前に自殺してしまう被害者も少なくないからだ。

 映画に描かれる調査チームの記者たちはいずれも、カトリック教会の醸す空気に包まれた地元ボストンを愛している。そして調べれば調べるほど際限なく奥行きを増してゆく闇の深さを前にして、憤りを露わにすることなく衝撃を静かに受け止める。この繊細で濃密な描写こそ本作の白眉といえる。



 購読者の53%がカトリックというボストン・グローブ紙にとって、教会暗部の糾弾は非常なリスクをともなう冒険だった。ここで調査開始を指示した新任編集局長がユダヤ人であり、最初の協力者となった被害者側の弁護士がアルメニア人(アルメニア正教徒・上画像右)であったことは特筆されて良いだろう。このスクープが生まれるまでには、こうして鍵となる人物がしがらみの薄い非カトリックであったことや、記者チームの構成バランスが強靭な推進力を生んだことなど幾つもの偶然の連鎖が作用した。

 カトリック教会の影響力が政治家や地元有力者、法的システムにまで深く食い込んだ地元社会においては、真実はしばしば教会の権威にひれ伏してしまう。その力は他者からの圧迫によってではなく、まず信者個人の内面において起動する。組織的隠蔽が首謀者たちの悪意によるものというよりは、むしろ人々に望まれた善意により事実が隠されてゆくところに病巣の根深さはある。「うちの神父にかぎってそんな過ちを犯すはずがない」「あの人がそう言うのだからきっとそれが正しいのだ」といった盲信と錯誤の連なりがコミュニティを覆う事態は、言うまでもなくカトリック教会だけに起こるものではない。

 映画『スポットライト 世紀のスクープ』は、このように実際の事件をめぐり実在する関連人物たちに入念な取材を重ね、安直なヒロイズムや扇情的ヒューマニズムに陥ることなく、真相へと肉迫する記者たちの横顔を丁寧に描き出していく。記者役のマーク・ラファロやレイチェル・マクアダムス迫真の演技はまさしく息を呑むようで、彼らの長いキャリアのなかでも最高水準のパフォーマンスを発揮している。

 ちなみに本作のモデルとなった実際のグローブ紙調査報道チームは、このスクープにより2003年度ピューリッツァー賞(公益部門)を獲得した。日本でも公官庁の発表を垂れ流すだけの記者クラブ報道が批判されて久しいが、新聞各紙が日本以上の苦戦を続ける米国においても、報道の質的劣化は常に問題とされてきた。そうしたなかでの本作公開は、専任の記者チームが数ヶ月をかけ一つの事件を緻密に追う調査報道の意義再考を迫ってくる。ネットを経由したお手軽な情報ばかりが氾濫する今日においてこそ、信念に基づき足で稼ぐことによって生み出される情報の価値が問われている。

 自身がカトリック家庭に育った本作監督トム・マッカーシーに教会バッシングの意図はなく、なぜこのような組織的隠蔽をともなう大罪が行われたのか、その社会構造にこそ焦点を当てたという。冷静で真摯なその姿勢は密度の濃い作品展開へ十全と活かされ、カトリック教会という究極の世界的権威を前にジャーナリズムの本質とは何かを問いかけてくる本作は、本年度の米国アカデミー作品賞および脚本賞に輝いた。



 さて。

 以上を書いたのは半年以上前、2016年3月末のこと。冒頭で「トランプ現象」と触れてはいるが、Brexitも起きていないあの時点でトランプの当選を本気で心配する人は、むしろ周囲から心配される羽目に遭っていただろう。

 人間は弱いもので、トランプ当選から一週間と経たない内に、現状肯定への欲望に規定されて実に欠けたトランプ追認論が次々と世を跋扈しだしている。一方で、正当な民主主義の手続きを経た選挙結果に対しデモを起こすなど筋の悪い反発も喧しい。トランプはたしかに現代世界における民主主義の限界を示す象徴だ。だからこそ、そこで考えるべきことなされ得ることは複雑多様にあるはずなのに、事の全責を彼個人に帰すのは当該の民主主義制度を否定するだけで、申し訳ないけれど単にトランプ大統領を否定するだけの声から聴き取れるのは、知的怠慢を覆い隠そうとする発声主のさもしさだけだ。

 大統領がトランプとなってアメリカはどうなるんだ、世界はどうなるんだみたいに嘆く向きに対しては、すこし思い返し考えてみてほしい。アメリカはかつてノリでハリウッド俳優や「ブラジルに黒人は入るの?」のブッシュJr.を選んだ国だということを。NYやカリフォルニアを中心に向こう4年のあいだ逆方向への傾斜は当然働いて、オバマを生んだあの波の再来もすでに約束されたようなものだということを。

 この1、2年、アメリカ映画ではLGBTをテーマとした作品の公開が質量ともにこれまでとは異なる段階に入っているけれど、ぼく個人の予測ではこの流れは今後マイノリティ全般へと自然に広がり、ハリウッドメジャーがその年のトップを競う種の商業大作へも確実に影響を及ぼしてゆくことになる。

 表現領域でのファイトバックは、その場その場ではつねに不可視の領域で為されるものだ。今から何が始まるのか。もうすでに始まっているのか。『ダークナイト』が製作・公開されたのは、2001年から始まったブッシュJr.政権末期の2008年だ。





『スポットライト 世紀のスクープ』 http://spotlight-scoop.com/
※本稿は、pherim寄稿によるキリスト新聞掲載記事(16年4月)に手を加えたものです。

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