書くということ〜息が詰まりそうになった時は


昔から、自分の意見を話すことが苦手だ。

真剣な場面では、緊張して思いがまとまらず、早口でしどろもどろになる。また、「吃音」は喋ることを邪魔する大きな要因でもある。
分かるように伝えなきゃと思うから、余計に疲れる。

その反面、文章で伝えることは気疲れを知らない。
例えば小説の感想。色使い、風景、感情、、、見えたものを綴ればいい。誰にも気を遣わなくていい。感じたままを書けばいい。
書いたことを理解してもらえなくても、それが私だから、それでいい。大丈夫だと思える。呼吸できる場所があると知る。
文を書いてこそ、わたしだと思える。自分らしさを見つめられる。

人とは違う感性を持ちあわせたことで、散々傷付いてきた。
本当の理解者は少しで良い。10000人のうち、1人でも理解してくれるのならば、幸せだと思っていた。

だから大人になってから、自分の文章を応募しようと思ったことは1度もなかった。自分の文章が見向きもされず、海底に沈んでいくのが怖かったから。
鍵付きのインスタで感じたままを書いて、10人程度の友達から「いいね」を貰う。
平凡な幸せ。それでいい。それがいいと思っていた。

「書く人」に出会って

ある日、小説を書く友達ができた。
会わない期間もあったものの、たまに会うと「最近書いてる?」があいさつ。

彼の作品の原稿を読んだことがある。登場人物は皆カタカナだった。カタカナが極端に苦手な私は、残念ながら読破できなかったものの、自分の作品を「応募する」という姿勢に衝撃と感銘を受けた。

先日、彼はゲームのシナリオ関係の仕事に就いたこと、ライターになるための学びを始めたことを知った。

ゲームのことはよく分からないが、仕事の話を聞いて、「やっぱり書く人になりたい」という夢を聞いて、単純にかっこいいと思った。

自分よりも言葉巧みで、素敵なストーリーを紡げる人たちが五万といる世界で、「書こう」と思えたのは、そんな彼の存在があってのことだった。

「応募」という一歩、noteという一歩

そんな時、Facebookの広告欄に「エッセイ募集」の文字を見つけ、すぐさま概要欄を見た。テーマは「私の感性」。
「書きたい」という気持ちが蠢いた。

かがみよかがみという朝日新聞社の関連のメディアだったのだが、応募して1週間ちょいで、初めて応募した作品の「採用」のお知らせが届いた。

知らせを目にしたのは、夜勤中。
小躍りするほどに嬉しかった。

公になれない私が、公に世に出して良いと文章を認められた気がして。
あなたは書いても良いんだよって、後押しされたような気がして。
その後押しを受けて、noteへの一歩を踏み出した。
小さなことかもしれない。でも、私にとっては大きくて、とても幸せな経験だった。

エッセイの内容は、柿について。
タイトルが私らしくない気がするけれど、読みたいと思ってもらえるようなタイトルを編集部様に考えて頂いた。隅々まで見ていただいて、コメントもいただいて幸せだった。

▽ぜひ読んでいただけると嬉しいです

読んだ人はどう思うんだろう。
読んでくれる人はどんな人なんだろうと考える。どんな痛みを抱えているのだろう。

私の言葉で誰かを救えるなんて思わない。
全部を理解してもらえなくても良いから、少しだけくすっと笑って、あたたかい気持ちを届けられたのなら、書くことで自分自身の心が癒されていく気さえする。

書くということ

それは私の居場所。
うまく呼吸できる場所。
生きにくい世界の中の休憩所。

息が詰まりそうな時は、またここで。

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#息が詰まりそうな時は #またここで
#かがみよかがみ

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