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悲しみの全てが涙なら

一息つく時間ができたので、最近思ったことをメモする。

私自身の仕事はいい加減な方で、締め切りが後で良いものは後回しにしまくる性質がある。ギリギリにならないと出来ない、追い込まれないと出来ない性格なのかもしれない。時間があるときはこうやってやりたいことを先にやってしまう。実は今も、今日中!と追われている仕事が一つある。

私はそれを自分の弱さだと知っていて、それともう一つ、凝り性っていうのもある。黄道としてはやり始めが遅いくせに始めたら時間を掛けて完成度をあげたくなる。何かを作ってほしいと言われたときは大体このパターンだ。

こういう特性がコロナ禍でマッチしている部分もある。

教員の仕事は、国や市から降りてきた仕事をスケジュール内にやってほしい。とトップダウンで来る。その仕事の期日が本日中、定時を過ぎても具体的な指示が降りてこない。なんてことはザラだ。一般企業なら管理責任が問われるような状況が頻繁にある。

そのツケを管理職や一般の先生方は食らうわけだ。イライラするし定時を過ぎてるんだから向こうの責任と言って帰る人もいる。あるいは、いつものこと過ぎて自分の仕事の管理を放棄している人もいる。期日が来たらみんなが焦ってくれるから自分が管理しなくても誰かが教えてくれるというやり方。

子どもとは直接関係ない、表に出にくい仕事について、その一つ一つの仕事に対する意識が低くなりすぎている。行事なども何時間も会議して決めたところでコロナ禍でドタキャン!なんてことも多々あった。嫌になる気持ちも分かる。そもそもの仕事量が多いから、普段から細部に手が回らないことが多い。

そういう仕事だから、適応力が求められる。気が回らない人はそのままだし、気になり過ぎる人は病んでいく。私は、その中間くらいだ。気配りはするが、諦めは早い。それでもやっぱり時間があると気になるのだ。

嫌になるし悪口も言いたくないけれども、あなたはそんな仕事をしていていいの?って。そうやって細部が気になって、気がつくと残業地獄が待っている。上手くいくように丁寧にやってきたことが裏目に出る。それが当たり前になってしまったら尚更、自分の仕事を引き継ぐような人は地雷である。

「その校務分掌は(大変だから)私には出来ません」

部活動も似たようなもの。やったことない仕事の責任だけを負わされて、土日もボランティアで働いて成果が出るかは分からないが、強い部活ほど上手くいかなければクレームが出る。好きじゃないと出来ない。

夏を越えた新人の先生は、きっと一年は続くと思う。夏が来る前に病んでしまった先生の一生は、今は目の前が黒く塗りつぶされていることだろう。来年はもっと忙しくなることが既に分かっているので、私は一旦、現場を離れるかもしれない。それで現場が回るかは分からないけれども。今年の採用試験もダメだったときはね。講師なのでどうということはないはずだ。

「誰も 悲しい出来事 避けては生けないよ

 いつか輝くと信じて こんな夜を数えているよ」


信念があれば、判断が早くなるので考えることも減ってくる。信念があるからこそ、作業が増えてしまうこともあるし、ぶつかることもある。仕事量が減らないのは、自分の信念とどう向き合うかってところだろう。

何かに挫折して、それでも次こそは何とかしたい!と自分の信念と向き合える人は強くなる。現場を主体的に動かしている人は大体そんな人だ。教員という仕事の特殊性なのか、ゆとり世代云々の特性なのか分からないけれども、現場の若い人たちにそういうものが見えないことは確かである。

今後、どう育っていくかは分からないし、誰に習うかも関係してくるのだろう。ただ一般企業から入ってくる人たちからすると仕事の質に対する違和感はあるし、信念があって仕事をしている人からは、お前は何者になるんだ?って感じで見られると思う。

今年はコロナ禍で飲み会もできないし、そういう話が出来ないから可哀想だなとも思う。私が現場に入ったときは(ほんの数年前の話なのだが)真夜中まで仕事をして、週末にはお疲れ様会と称して、教育について、仕事について熱く語りあう機会が多々あった。

自分たちで指摘し合い、後悔をこぼしたり、反省する機会を、飲み会で悔しく楽しく語り合うのだ。それでもやるしかない!と戦っていた。今になって思えばブラックではあるけれども人材や環境に恵まれていたのかもしれない。それは運。いや、努力しあっているものが惹かれ合うのだとは思う。

逆に言えば、努力が見えない人に対して蔑んでいる部分もある。諦めもある。仕事なので支え合うことが前提だから、出来ないことがあるのは別に良い。ただ出来ないことに気づいていなかったり、誰がどんな仕事をしているか気にもならない人もいる。

言われないから知らなくて当然。主体的に生きることを忘れてしまう人たち。これは学校現場にありながら、そういう世代の教育のあおりを受けている感じだ。私も毎年、仕事の質が安定することはない。毎年慣れない仕事をしているし、教材研究も出来ないまま授業に突入することもある。毎月100時間以上残業していても、そんなものだ。出来ないことに挑戦していると現場は回らない。自分が出来る仕事をしている人だけが上手くやっている。

上手くいかない原因について「慣れていないから」という人もいる。それは確かにあるだろう。でも一般企業じゃそうはならない。既に収入源として回っている仕事、収入源として確保されているような仕事はルーチンワークとして効率化を求めるレベルだ。去年と同じ成果であったとしても、失敗するようなことなんてありえないし、挑戦する仕事はそもそも別枠でやっている。そういう根本的な部分の、教員の仕事の回し方は公務員特有なのかもしれないが、ひどくおざなりにされている。

毎年、いろんな場所で言われるであろう引継ぎ台詞。

「○○さんがいなくなっても現場が回るようにしておいてね」

引き継ぎはするだろうけれども、誰にでも耐えれるとは思わない。だからこそ新人が潰れたり離職率が異常に高かったりするのだ。管理する側に仕事をする能力がない前提で現場を回しているのだから、どうにもならないことは分かっているけれども、責任転嫁をするために一言、言わなくてはならない台詞である。

世間ではオリンピック問題で炎上していることが多々あるが、あらゆるものが団塊世代に食い捨てられたような感じはする。逆にこれから氷河期世代の人たちが建て直す方向に動いてくれれば、ゆとり世代もついていくんだろうなとは思う。私は正社員ですら無いし、その間の世代であるから世間体としては子育てで忙しくなっている年齢層である。

私は、そういった意味では社会貢献が何もできていない。一国民としては残業時間も大量にあるし、効率の悪い、生産性のない癌のような存在だと思う。統計データ上は社会悪だ。私だって役所の人間なら他人の仕事内容なんて知らないので、数字上は仕事のできない人だからパージしてしまいましょうって考えるだろう。

どれだけ仕事を持っていても、数字上、上手く回せていないなら必要ない。

そういう働き方をしている人が、いつも遅くまで残っている人が、現場を主体的に回している。残業を勧めるわけじゃないし、出来れば無くしてほしい。みんな早く帰ってほしいと思う。それでもやっぱり、気になることはある。

言われたことは忘れずにやってほしいし、決めたことは守ってほしい。資料があれば読んでほしいし、分からないことや出来ないことは事前に伝えてほしい。

出来ないことが多いから新しいことをしたくない気持ちは分かるけれども、出来る仕事を増やさなければ、誰かに仕事が集まり過ぎてしまうことを知ってほしい。

誰が残って仕事をしているのか。知らないフリをしないでほしい。

そういう無関心が、いろんな先生の熱い気持ちを殺しているという自覚を、教員だけでなく、関係する人は皆が知れば良いと思う。


何が正しいのかは分からない。


でも今すぐできることは、それじゃないだろうか。って思った。

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