意見書とその撤回を受けて(進化思考関連)
例えて言うなら、 火は城下町を焼き尽くしたが、本丸は無傷のままであった。 というところだろうか。
経緯など
私と松井実助教とで「『進化思考』批判」をデザイン学会で発表したのが6/26のこと。その後『進化思考』の著者太刀川英輔さんが7/6にデザイン学会に撤回を求める意見書を公開。その後の流れはまとめていただいている。
『太刀川英輔『進化思考』と,デザイン学/生物学研究者らの批判,著者からの応答など.』https://togetter.com/li/1923105
(学生から「こんな大量のは「まとめ」じゃないのでは」と言われた(確かに…))
この意見書は直接発表者の我々に宛てて、ではなかったため、ひとまずデザイン学会の対応を待つことにした。なお意見書は少なくとも一度7/29前後にサイレント修正がなされたことを確認している。 ある団体に宛てた文章として公開したものと同一でないと、それに対応する団体にも迷惑がかかるので大人の振る舞いとしてはあまり良くないと思うが、例えば「彼」と一人称だったところが「批判者」と複数形に変わり私の存在も認識されたようだし、攻撃的なトーンが若干減ったので良かったとしよう。
意見書がデザイン学会にも届いているらしいことは松井先生が中の人(一連の流れ的に言えば「国立大学教授」)に確認済みであるが、数か月経ってもデザイン学会からは何のリアクションも出ていない。(何か決まったら我々2人に連絡下さい、というお願いメールを松井学会員が7月中旬に送っている)
流石にそろそろ何か意見表明するか、と思って先月意見書を確認しに行ったところ、「2022年7月31日に本意見書を撤回しました。太刀川 英輔」と記されていた。10月中に一度見た時は非公開ドキュメントだったと記憶しているのだが、太刀川さんご本人の中では7月末に撤回したということなのだろうか。
デザイン界の反応など
私自身は学会員ではないので、デザイン学会に対して厄介ごとを抱えさせて申し訳なかった気持ちはあるが、学術団体としては正式に査読プロセスを通った梗概の取り消しの要求という無理には毅然とした対応を取るべきであると思うし、そのかわりに次回の学会大会で発表の場を無償で(もちろん事前の梗概査読はするが)提供する、くらいのことをしても良かったのではないかと思う。
Amazonのレビュー欄に批判を書き込むのではなく学会大会での発表を選択したのは、議論の場となることを期待してであった。学会大会に対する私の認識は概ね次のウィリアム・モリスの言葉の如しである。rashlyに対する中橋一夫訳「乱暴な」はちょっと違う気もするが。
話は少し逸れるが、氏名に敬称「先生」を付けるのはやや権威主義的な気がしてきたのと、「教授」「准教授」といった職位を付けると一般の方からは「教授」の方が「若手研究者」である「助教」より「えらい」あるいは「正しい」と思われてしまいそうなので、ここからは学位である「博士」のみを使用する。
また改めて断っておくが、私は太刀川英輔さんと特に利害関係はない。仕事やクライアントを取り合ったこともないし、デザイン賞の審査をする側/される側となったこともない。デザイン学会に入っていないのとはまた別の理由で彼が理事長を務めるJIDAにも入っていない(企業を退職し教員になった際に入会しようと会員デザイナーお2人に推薦状も頂いたが、東大の博士課程入学も決めたため入会を見送った)。
私が太刀川さんを知ったのはまだNOSIGNERの名のみで活動されていた頃で、ビッグサイトでの展示会でユーモラスな「かぴょ丸くん」の描かれた干瓢うどんをよく目にしていた。東日本大震災後の「OLIVE」の素早い立ち上げはリアルタイムで見ながら感銘を受けたものである。
さて、学会での発表後、デザイン界からの反応は極めて少なく、発表直後に東京藝大の藤崎圭一郎さんが「一刀両断」とツイートされただけであった。ただし藤崎さんは割とすぐにそのツイートを削除され、またその後藝大の授業に太刀川さんを招いたようなので、どちらかというと是認派のようである。
また先日行われた放送大学での九州大の池田美奈子さんの面接授業「創造の思考法」では1回分丸ごと「進化思考を考える」に充てていた。シラバスは前年度のうちに書くと思うので、我々の発表以前に企画したものであろうが、多少は批判的な視点を加えてくれていたら良いのだが、と案じるのみである。
JIDA会員間で多少話題になっているらしいことは小耳にはさんだが、表立った反応は本当に他になかった。このデザイン界(特にデザイン学会)の無風状態はちょっと予想外であった。
実務家のデザイナーは各自が手法を確立しているためわざわざ当該書を読んでない、あるいは太刀川さんと面識があり批判しづらいことは理解できる。Twitter上にいるのは当該書が扱うモノのデザインよりも情報系のデザインに携わる人が多い印象だし、学生はなかなか議論に入って来られないだろう。
しかし、実務家ではなく研究をメインとしている大学教員からはもう少し反応があって然るべきではないかと思う。クローズドのSNS等で散見されたのは「結果として良いデザインが生み出せるのであれば瑣末な誤りに目を向けるのは非生産的である」といった論調である。
当該書は学術的にも問題ないことを主張しており、また著者が「細部に神が宿る」と書いている以上、第3者がそこを擁護しても仕方ない。教育者や研究者が「目的(あるいは結果)は手段を正当化する」スタンスでいるのは大いに問題だと考える。小保方STAP細胞事件から何も学んでいないのだろうか。
今回の騒動?は結果的にデザインと学術の相性の悪さを浮き彫りにしたように思う。実践知であるデザインが学たり得るのか、「デザイン学」なるものが成立し得るのか懐疑的であるため私はデザイン学会に入っていない。だが「デザイン学」を信じる立場の人からはもう少し意見があって良かったのでは。
進化学周辺からの反応など
『進化思考』に対する私からの批判は学会の梗概とZennに書いた通りであり、徒に繰り返す気はないのだが、進化学周辺からの批判がこれほど燃え上がるとは想像していなかった。博士の皆さんがこれだけ激しく批判しているのだから、著者の進化に関する理解は間違っているのだろうと思う。
思う、というのも無責任なようだが、進化と創造との関係についての議論に付いていけないのだ。Zennの最後にも書いたが、「創造」と「創造性」あたりの語の定義や用法が破綻しており、理解不能だからだ。むしろ皆さんよく議論ができますね…と思う。
例えばp48には
とある。現代文や英文読解的に書けば、
前文からは「創造」=「現象」、
後文からは「創造」=「能力」、
となるが、明らかに「現象」≠「能力」であるため、もう理解不能だ。
さらにp62には「創造性のことを、二つの思考を往復しながら生み出す螺旋的な現象として捉えれば」とあり、「創造性」もイコール「現象」になっている。
進化と創造の関係について論じる以前に私はここで脱落。これ以上読めない。学生になら付き返す。
とにかく「創造」と「創造性」周りはリライト必須だ。
ただこの言葉の使い方の粗さもデザイナーとしては理解できなくもない。デザインの大切さを説かんがため、グラフィックもデザインです、ユーザー体験もデザインです、仕組み作りもデザインです、と何でもかんでもデザインです、と普段から言いがちなのだ。私もそういう時は厳密性を気にしていない。
太刀川さんは『進化思考』が受賞した山本七平賞の選考委員に長谷川眞理子博士が名を連ねていることから「進化論の権威」のお墨付きと主張していたが、進化学会で聞いた人の話では、長谷川・養老両博士は進化思考の選出に大反対したが、他の審査員が聞く耳持たなかったとのことである。
この話は松井博士を通した伝聞の伝聞の伝聞なのだが、長谷川博士ご本人が「過去の失点なので考えたくない」と言っているらしいということを念頭に置いて『Voice』2022年1月号の山本七平賞の選評を読んでみると、「ユニーク」「新しい」と言葉を選んでおり、必ずしも是認していないことが伺える。
冒頭では
と宣言し、またあくまで「考察」「提案」と評している。
例えばプロアスリート(仮に大谷翔平選手としよう)が「こんな握りの独自の変化球を考案したんですけどどうですか?」と訊ねられたとしたら「ユニーク」で「新しい」ですね、くらいは言うだろう。ただこれをプロのお墨付きと言うのは無理があると思う。
養老孟司博士の選評にも「各論については、 本書を読んでいただくしかないが、」「著者の方法は基本的にはアナロジーであり、」とあり、不本意感が見え隠れするようである。
他の選考委員の選評も付記しておこう。
伊藤元重「生物学の進化を論じた本としてみると専門的な知見と異なることがあるのかもしれない。」
中西輝政「専門的な見地からは、おそらく多くの留保や異なる評価もあり得るでしょうが、」
八木秀次「三十五億年の生物の進化を体系化する試みには、選考委員会でも細部に異論があるとの指摘もあったが、」
ということで、前述の「長谷川・養老両博士は進化思考の選出に大反対した」という伝聞の信憑性が増す。
大学での学びのすすめ
さて当初太刀川さんは我々の批判に対し「面喰らった」ということで不快感を表していた。特に慶應大の隈研吾研究室の後継研究室の出身で後輩に当たる松井実博士が発表者だったこともあるだろう。だが幸いにして私は太刀川さんよりいくばくか年長である。
また博士課程の入試面接官として隈研吾博士は真ん中あたりに座っていたように記憶しているので、広い意味では私も同じく隈先生の「教え子」と言えないこともない。昔講評会の打ち上げ的な場で一度話したことがあるだけだが。内田祥哉博士からの建築構法系研究室の卒業生という意味で同門ではある。
そんな私から太刀川さんへの提案は、それほど生物学にご興味あるならちゃんと大学院で学んだらどうですか?ということだ。私もダブルマスターだし、本務校の産技大には、京大や早大修了で2つめの修士号を目指して学びに来ている、という方々が珍しくない。あるいは放送大学で学部から学ぶのも良いのでは。
今回独学の限界も見えた気がする。例えば読書猿@kurubushi_rmさん(以前からblogに感嘆している)の著作『独学大全』が売れているようであるが、学び続けるということ自体は素晴らしいのだが、独学は勘違いや誤解に陥ってしまった場合、それに気付くのが難しい
Zennでもp192「微生物が水平遺伝子の移行によって交配している」の誤り(「水平遺伝子」という語はない)を指摘したが、「水平遺伝子」が伝播するのか、遺伝子が「水平に伝播する」のか、リテラシーがないと判断できないだろう。大学や研究室という学びの「場」の意義は少なくないと再認識した。
進化以外の生物学的な誤りについては金取って読ませる文章でこれだけ間違いだらけなのもどうよとは思うが、一つ一つは枝葉末節だとも思う。ただその間違い事例をすべて取り除けば本の厚みも相当減るし、その分生物の「進化」との関連性も薄くなるので、やはり全体としては重要だと考える。
細かいところでは、p119「交雑育種による品種改良によって、種なしブドウが開発された」に対し、それジベレリン処理だろ高校生物レベルだろという指摘もあったが、私はここはスルーしている。確かにデラウェアはジベ処理だが、果樹は枝替わりなど挙動不審なので世界にはそういう品種もあるかもと。
学者が騒いでるだけだろ、というスタンスの方に対して『進化思考』が学術的な誤りを流布することの問題点を伝えるならば、姫岡優介博士@yhimeokaのツイートが最も端的に言語化していると思う。
エラー(変異)まみれ
ご本人が「撤回した」とする文書を引用することが可能なのか不明だが、「エラーについて「誰のためのデザイン?」に倣ってslipとmistakeに分類すべきなど、それが⼀書籍における著者のエラーを捉える観点にすぎないにもかかわらず、指摘し批判してい」ることに異を唱えられていた点掘り下げる。
まず、我々の発表梗概を自己引用するが、当該書の主題の片方である「変異」(エラー)について、「二種類に分けて考えることは世間一般的であるとは言い難いかもしれないが、著者のいう「解剖」の視点を「エラー」に適用しさえすれば達することのできる視点であろう。」
p56玉入れの例で言えば「あてずっぽうでも玉を投げまくる」試行錯誤のは計画段階での「見当違い」で、正しくカゴの方向に向かって投げたつもりがコントロールが悪く違う方向に飛んで行ってしまうのが実行段階での「し損い」だ。この質的に異なる2つを区別できていないのは明らかな欠陥だろう。
自力でその視座にたどり着くことが出来なかったとしても、30年前の本、ドナルド・ノーマンの『誰のためのデザイン』さえ読んでいれば、前者「見当違い」は「mistake」、後者の「し損ない」は「slip」と明確に区別されていることを知れた筈ですよ、ということであり、未読を責めているのではない。
DNAの変異は複製を正しく遂行できなかった「し損ない slip」である。それとエジソンのフィラメント探索の過程でのp70「一万通りのうまくいかない方法」つまり「見当違い mistake」は全く違う。この両者を混ぜてしまっている時点で当該書副題の「変異と適応」の片方「変異」の看板が怪しくなる。
ノーマンの『誰のためのデザイン』は「アフォーダンス」の語(後に「シグニファイア」と訂正した)とドアノブの話で有名になった本だが、ヒューマンエラーについて書いていることでも重要だ。ノーマンは後にAppleで“User Experience Architect”(1993-97)を務めたデザイン界でも重要な人物である。
米国のノーマンと英国のジェームズ・リーズンの2人が「ヒューマンエラー」研究の大家と言え、「進化」におけるラマルクやダーウィンに近い存在であると思う。「⼀書籍における著者のエラーを捉える観点にすぎない」という認識で「変異 error」について語るのは、流石に勉強不足で独善が過ぎよう。
なお補足をしておくと、ノーマンとリーズンはヒューマンエラーを「slip」と「mistake」の他にも「lapse」(手抜かり)など細分化している。学ぶとしたら、私も読み通せてはいないが、ジェームズ・リーズン『ヒューマンエラー 完訳版』が良いのではないかと思う。
晴れぬ剽窃あるいは盗用疑惑
そして「変異の9パターン」とする「変量・擬態・欠失・増殖・転移・交換・分離・逆転・融合」と、「オズボーンのチェックリスト」の「転用・応用・変更・拡大・縮小・代用・再利用・逆転・結合」との一致について、今のところ筆者は一切触れていない、というのも看過できない問題だろう。
アレックス・オズボーンの「オズボーンのチェックリスト」は横山雄樹さん@dagasteinが指摘しているように、太刀川さんが理事長の立場にあるJIDAの書籍『プロダクトデザイン 商品開発の知識105』p124とp136に載っているのである。
実は2009年の初版『プロダクトデザイン 商品開発に関わるすべての人へ』からp132「3.オズボーン式チェックリストによる立体構成アイデアバリエーション発想」として載っている。そのページの執筆者は元トヨタで当時名古屋工大教授の木村徹さん。
同じく2014年のJIDA『プロダクトデザインの基礎』ではp89にKEYWORDとして「オズボーンのチェックリスト」が具体的な9つの列記を含めて掲載されている。この章の編集担当は元日本IBMで当時千葉工大教授の山崎和彦博士。多分私はこの本でチェックリストのことを知り、授業で教えてきた。
先行書が日本語に訳されていないとか、無名の人物によるものであるのなら、たまたま「車輪の再発明」的に似た分類に独自に辿り着いたということもあり得るとは思うのだが、『進化思考』p51-2ではオズボーンがブレインストーミングの生みの親であることを彼の著作『創造力を行かせ』の文章まで引用して紹介し、またp89でも同書のオズボーンの言葉を紹介しているが、その『創造力を活かせ』こそがチェックリストも書いてある本なのだ。パクリ?と思うのが普通であろう。それにしても50年以上前の先駆者の存在を隠蔽するような記述の仕方はいかがなものか。人格を疑わざるを得ない。
また仮にオズボーンのチェックリストの「アレンジ」の場合でも、「アレンジ」にも価値はあるのだから、きちんと乗った「巨人の肩」を明記すればよい。それを、意図的であれ不注意であれ、明記しないことにより「剽窃」の誹りを免れなくなる。「盗用」や「剽窃」については、これも書くと近しい人達から嫌がられること承知で書くが、東大建築「セルカン事件」が割と身近で起こっているため、気付いたらすぐ指摘・糺弾せねばならないと思っている。
JIDAの新たな理念は何処へ
私のアカデミアンとしての批判は以上だ。デザイナーとしては、学術の世界と縁を切るのであればどうぞご自由に、という感じである。デザイン実務においては特に厳密性も再現性も必要ないし、まあ結果がすべてだからだ。
しかし、『研究者』「などの入会を可能と」することを掲げて日本インダストリアル「デザイナー協会」から「デザイン協会」に名称を変更したJIDAの理事長として提唱するには相応しくない思考だと言わざるを得ない。特に根拠レスの断定的な物言いは科学や研究と相容れない
余談だが、やはりJIDAの名称を変更したのは失策であったと思う。産技大名誉教授の國澤好衛さんも「職能団体であることに意味があるんだからデザイン協会になるのなら辞めると言ってた」そうだが(そして多分実際に辞められた)同感である。門戸開放しさえすれば良いわけではない。
さて出版社は改訂版を2023年秋に出す予定ということだが、これだけの誤りを直した上で全体として整合性のとれた文章になるとは申し訳ないがとても思えない。そもそも「変異と適応」という進化のアナロジーを用いなくても「発散と収束」というデザイン界の既存の言語で充分なのだから。
やはり梗概で提案したように『太刀川の思考』あるいは他の方々が提案する『太刀川進化思考』とすべきではないか。正誤表でわざわざキプリングから訂正したキップリング(…直すとこそこ?)の名を冠した「Kipling method」(5W1H)のように。
太刀川さんは元々Nosignerとして活動していたように、匿名を美学とされているのだと思うが、ここは堂々とご自身の名を冠し、既存の生物学や進化学の威を借りることなく、自身の思考のオリジナリティを声高に主張すれば良いだろう。
もっと勉強しよう
最後に。これは自戒も込めてなのだが、デザイン界の人間はもう少し勉強をすべきだと思う。近い世界で言うと、建築界の人間は学生時代から圧倒的に勉強して議論しているように思う。東大にしても早大にしても。世界的に活躍する日本人建築家がとても多い理由の一つは勉強量だと思っている。
例えば建築時代の師匠(と呼べる関係性かは微妙だが)である東大名誉教授難波和彦博士のblogを見ると、グッドデザイン賞などの審査員や放送大学の授業、あるいは雑誌原稿に対してどれほど入念な準備をし、多大な労力をかけて臨まれているのかわかり、尊敬の念に堪えない。
故鈴木博之博士が学位のない安藤忠雄さんを教授に引っ張って来てからもう25年も経つが、山中俊治さんですら東大の中では「博士号持ってないじゃん」という見方も少なくなかったらしいので(流石に情報源を明かせないが)、希少な博士号持ち実務家教員としてはこうして嫌われながらも精進したい。