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川のない橋-かじぃのポータル再訪紀2 御陵橋

Google Map
Google Street View
Ingress Intel Map-御陵橋の千手観音

うん、正直に言っておこうと思う。
前回はぶちかまし過ぎた。

どういう事かというと、今里不動古墳のようにめちゃくちゃインパクトがある遺跡が、そうそうその辺に転がっているわけではないのだ。
今里不動古墳は「前室と玄室に巨大岩石を使用」「玄室にまで入れる」おまけに「お不動さまが祀ってある」と3拍子揃った非常に稀なポータルなのだ。
でもほら、やっぱ初回にドカンとでかいインパクトを与えておかなきゃ、お客さんを引き込むことはできないわけですよ。
なので初回に今里不動古墳を持ってきたわけですが。

毎回あんなインパクトのある遺跡を紹介することなんてのは不可能なわけです。
じゃぁなんでシリーズ化を考えたのか?という話なんですけども、別の意味でエモいポータルなんてのは結構あったりするのです。
「謎」を主題としたポータルなんかはその一例。
「かじぃの未解決事件簿」なんていう別タイトルも考えたのですが、独立させてしまうと今度は再訪紀の方が薄くなる。
そんなわけで「謎系」の記事も再訪紀の中に組み込むことにしました。
今回はそういった「謎系」のお話です。

今回の「御陵橋」、場所は第一回で紹介した今里不動古墳から南南東に300mほどのところにあります。
この辺はもう福岡市博多区ではなく、大野城市に入っていて、地名的には「御陵」という名称がついています。
水城下臼井線からちょっと東の住宅街に入っていくと、その不思議な場所があります。

住宅地のど真ん中に突如現れる異質な空間。
奥に丘が見えますが、この場所とは繋がっておらず、ここだけポツンと緑が残っている感じです。
角にはよくあるタイプの猿田彦様がおわします。

こんもりと茂った塚の南側には「御陵橋」と刻まれた石が。
しかし、周囲に川なんかどこにも見当たりません。

Google Map の衛星写真で確認してみてください。
どこにも川は見当たりません。

この塚に登るのは西側に面した古い急な石段。

南側にも折れ曲がった緩やかな新しい石段があります。
曲がり角のお地蔵さんの写真撮り忘れちゃったいw

南側の石段から登っていくと、5段くらいで折れ曲がり、こんな風景が飛び込んできます。
写真では背後の楠の幹と同化してしまって分かりにくいですが、右側に手水桶。
中央に石造りの厨子があります。
今は真砂土が撒かれていて、綺麗に整備してあるんだけど、オレがポータル申請をした2015年ってこんなに綺麗じゃなかった記憶があります。
ここ近年で整備されたんでしょう。

裏は一般宅です。もう、眼前に迫る感じで。

石造りの厨子はまぁまぁ古く、補修した跡が見受けられます。

しかし、なんでこんな割れ方したんだろう。
厨子の背面がセンター縦に真っ二つです。
他にも正面から向かって左側の側面、正面の屋根付近にも補修の跡がありました。

扉は新しいです。

2015年の申請時にはこの扉はなく、白い鉄格子で閉ざされていました。
なんか閉じ込められているみたいで面白かったですね。
千手観音は坐像で金属性のものです。
横にある石も気になるところですが、今は厨子の扉を開けないと確認することはできません。
まぁ、御本尊を確認できる写真を撮っているので扉を開く必要性はないですね。

塚の上の方は整備されて真砂土が撒かれて水はけもいいようでしたが、側面を覗き込むとこんな感じで赤土が顔を覗かせています。

塚の側面には楠の根もにょっきり突き出していて、この塚が過ごしてきた年月を偲ばせます。

さて。
問題の「橋なのに流れがないとはこれ如何に」という話に戻りましょうか。
いくつか推理できるかと思います。
①昔は川があったが、今はなくなってしまった
②川のほとりから、この塚に移転してきた
③一条戻橋のように、現世と異界の入り口がここにあった

③はもちろん冗談なんですがw
川と彼岸の話は今度にしておきますw

①についても2つの可能性があります。
500mほど西側に流れる御笠川が、実はここまで曲がっていた。
これにはちょっと無理がありますかね。

ここで地理院地図にご登場願いましょうか。
現在の地図の上に1945年頃の航空写真を重ねています。
センターの十字が御陵橋の場所です。
1945年の航空写真のレイヤーの透過度を調整してみると分かるのですが、確かに御笠川は現在よりもうねっています。
しかし、うねって山際に迫っている場所は、御陵橋のあたりではなくもうちょっと北側の今里不動古墳あたりです。
しかも、やっぱり際まで寄せてはいないことがわかります。
これは更に古い年代の地図でもあまり変わっていません。

これは地理院地図に残っているこの近辺の一番古い地図だと思います。
明治34年、1900年の測量とあります。
右下にある山の合間を通る道の左上にあるカクカクっとクランク状に曲がっている御笠川の形状である程度の場所は把握できると思います。

御笠川がここまで迫っていたわけではないことが分かりました。
では、次の推理「御笠川ではないが、かつてはここに御笠川に流れ込む川があった」です。

もう一度1945年の重ね地図を見てみましょう。
あ、あるな!!
正確には「この場所」ではないけど、20mくらい北西のところに川があって、川を横切る道があるな!!!
これ、橋だろ。

©国土地理院

オレンジ矢印が現在の「御陵橋」のある場所。
赤い矢印が川と道の交差点。

と、いうことは?
①と②の合せ技?
かつてこの場所の「近く」に川があって、今は側溝になって地表に表出してはいない川なんだけど、そこに橋が掛かっていて、それが御陵橋だった?
なんやかんやあって、川がなくなって、御陵橋の標石だけが千手観音と猿田彦を祀ってあるこの塚に移転してきた?
と、いうことは?
この「御陵橋の千手観音」ってポータル、御陵橋は元々関係なかったんやーーーーーーーっ?!
なんや、そのややこしい話はーーーーーーーっ!!!w

執筆しながら地図を突き合わせて調べていて、この仮説に辿り着いた時点で、sinXsanとTelegramでやりとりをしていた仮説②「標石だけ移設してきた可能性がある。たぶん移設元は最寄りの御笠川では?」説が不要なくらいの有力説となってしまい、執筆の途中でちゃぶ台をひっくり返してしまった感じになりまして。
オレの中で思い描いていたハズの筋書きが見事に崩壊。
1分くらい「えー?!」って心の中で叫び続けていました。
こんなハズではなかったのに…。
どうしてこうなった!www

いかがでしたでしょうか?w
調査してみたら、まさかのオチwww
こういうのも、この「ポータル再訪」のエモみだと思いますw

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