woofer887くんへ

はじめに


矢花黎くん。私は矢花くんに嫉妬しています。ええ、どの立場から言ってるんだという感じですね。ジャニーズアイドルというキラキラした職業につきながら、さまざまなジャンルの音楽に秀でていて、それでいて文章もよく書ける。そしてそれがまた面白い。私はそんな矢花くんのことがとても好きだけど、それと同時に嫉妬してしまうのです。特に音楽と文章の点で。なぜなら、私が20年以上生きてきて自分の誇りとしているのが、その音楽と文章だからです。逆に言えば、音楽と文章しかないのです。私にはずっと夢にしていた音楽があって、その夢が趣味になったあと、代わりに新しくできた夢が文章でした。今は文章や言葉について学びながら、毎日何かしらの文章を組み立てて発信しています。
でも、その音楽も文章も、何一つ矢花くんを越えられないのです。だから、矢花くんのジャニーズwebのブログを読むたび、いつも「ほぉ〜〜矢花は今日もいい文章を書いてるじゃないか!やっぱり矢花最高だわ〜信頼できるわ〜〜!」という気持ちと、「矢花はこんな面白い文章を書いてなお、音楽もできるし歌えるし踊れるのに私ときたら持っている能力さえパッとしない上に『今年こそ文学賞に作品を提出する』という目標を掲げて達成できずもう何年になる??私はいったいなんなんだ??」という気持ちが同居してしまうのです。
そんな中更新された5/12の異担侍日報。これを読み終わったあと、私はブログを書くしかないと思いました。ここで問いに対するレスポンスという形で書かなきゃ、私はいつまで経っても矢花くんに嫉妬し続けると思いました。20歳を超えてそろそろ夢を見ていられる年齢でもなくなってきて、あーだこーだ、こんなはずじゃなかった、私はまだやれる、なんて思っているうちに世界は毎日進んでいくし、自分は取り残されていく。だから私は今日この文章を、自分に見切りをつけるために書きます。矢花くんのような才能を求めてしまう自分に見切りをつけ、自分の持つかぎりの能力をフル活用し、矢花くんの問いに自分なりの納得できる答えを書き上げるのです。書き終わったあと、自分の位置を客観視できるように。少しでも成長した自分になれるように。
これはwoofer887くんへという形で書いていますが、私のブログなので私のことを好きなだけ書きます。だから、矢花くんのくれたお題に対する自分の考えだけど、書くことは本当に自分のことだけです。私のために書きます。だからもしwoofer887のタグ関連でこれを読んでくれている人がいたらここで言っておきたいのですが、多分ぜんっぜん面白くないです。ジャニーズのこととか多分ほとんど書かないし、私の鬱屈とした気持ちとか、後悔とか、マイナスなことで埋め尽くされると思います。痛いです。本当に自己満です。共感性羞恥とかお持ちの方は絶対に読まない方がいいです。それでも読んでくれる人は嘲笑ってもらっても大丈夫です!

「人生やり直すか否か」

さて、異担侍日報は「人生をやり直せるならやり直したいか否か」という具合の問いでした。結論から言うと、私はやり直さないと思います。やり直すか迷うキューもありますが、二択でそれっきりならやり直さない気がします。それは、私が今の環境にそこそこ満足していて、納得もしているから、かつこれからの展望がなんとなく見えているからだと思います。でも「もう一つの人生」について夢想する事はよくあります。現在の私から見た「もう一つの人生」に導くキューは三つほどあって、一つは中学受験、二つ目は大学受験に伴う将来の夢の移り変わり、三つ目は今現在だと思うのです。ちょっと長くなりそうなので、今回は二つ目と三つ目に焦点を当てて書いていきます。

・大学受験に伴う将来の夢の移り変わり

この文章たちの最初の方でさらっと書いたのですが、私はずっと楽器をやっていました。今もどっかの団体で弾いたりはしているので、かれこれ15年近くになるでしょうか。楽器以外にこれといってできることがなかった当時の私には、楽器が全てでした。だから楽器でプロになろうと思ったし、職業にしようと思っていました。それが私の人生だと疑いもしませんでした。
ところがある日、同じ楽器で音大を目指す同級生が現れたのです。しかも、そこそこ上手い。俗に言うライバルみたいなものです。歴や年数だけで言えば私の方が長かったのですが、舞台を踏んできた数としては、部活で弾いていた彼女の方が多かったのではないかと思います。そしてその時期、私は公私共々地獄の一年(別記)の真っ只中でした。もう楽器どころじゃない。一日死なずに家に帰ってくるので精一杯。とにかく弾けない。無理。将来が見えない。あー、今すぐ死にてえ。。。みたいな具合に、いろいろが重なって限界でした。踏んだり蹴ったり。今思えばスランプでもあったのかな?もちろんこれを言い訳にしている面もあるのですが、とにかく弾くのがつらくて逃げました。つらかったのは単純に弾くことだけじゃなくて、同じ夢を持ちながらも自分よりうまくいってる同級生のことが、自分がこれだけ血を吐く思いで向き合っているところを純粋な「楽しさ」で追い抜いていくのが、心底憎くて耐えられなかったのです。もちろん彼女だって楽しいだけじゃなかっただろうと思いますが、どん底にいると、自分より上を歩く人はなんでも楽そうに見えたりするんですよね。そしてこれは嫌味でもなんでもないのですが、私から見た彼女は楽器を弾いている時、本当に楽しそうだったんです。羨ましくて仕方がなかったです。そんなこともあって、私のプライドエベレスト力が変な方向に発揮されちゃったんだと思います。あんなにしがみついていたかった楽器なのに、もうどうしても弾けなくて、向き合う気にもなれなくなってしまって、ついにその夢を手放しました。そして代わりに掴んだものが、文章だったのです。
文章と言っても小説家になりたかったわけではなく、音大の道がつぶれた今、普通の大学に入るなら私には文学部しかないと高校生の私は直感で思ったのです。幸い昔から活字中毒の子どもだったので、文字を読む事は全く苦痛ではありませんでしたし、私の文章や言葉を褒めてくれる人も周りにたくさんいました。国語の先生が私の作文を校内の文集に推薦してくれたり、作文上手です!と赤でコメントを入れてくれたり、君の言葉のセンスは面白いねと褒めてくれたり。その結果、私は大学で文学を学び、こうして自分で言葉を紡ぐこともなんやかんや楽しくやっています。なので結果的に、楽器の道を諦めた事はよかったと思っています。音大に通う友達をみているとやっぱり私に音大は向いていなかったと思うし、きっともっとうつを拗らせていたのではないかと思うので。
でもそう思うと同時に「本来ならばその子たちと同じように音大に通ってたはずなのに、逃げた自分」という劣等感も生まれてしまうのです。どうしても「あの時諦めずにやっていたら」「もっと頑張れていたら」「志望校のレベルを下げてでも音大に入っていたら」と考えざるを得ないんです。諦めたけど、心のどこかでは諦め切れていないんですね、今でも。今の大学に入って、この人の学術的エッセンスを享受したい!と思える先生に出会えて、運よくゼミ分けも希望通りに乗り越えられて、地獄の一年の私がみたらびっっっくりするくらいまっすぐできちんとした生活を送っているけれど、それでもやっぱり音大に通う自分を想像せずにはいられないのです。それは音楽の道を夢見ていた時間が長かっただけあって尚更のこと。この劣等感は一生持ち続けると思います。だから現役音大生の矢花くんに嫉妬してしまうのかもしれないですね。
そしておそらく、このキューに戻ったところで私の未来は幸せではないと思います。いや、幸せなのかもしれないけれど、おそらくメンタル面では確実に今の何十倍もハードモードで、多分途中で死を選ぶと思います。あんまり幸せじゃなさそうですよね。でも、音楽でダメになって死ねるなら、音楽がやりたくて音大に進んだ世界線の私には本望なんじゃないかなーとも思うわけです。だから、このキューについては、戻らないと言い切ることができないんです。今から新たにその道を選び直すことは、不可能ではないけれどあまりに前途多難で、大人になって新しい環境に飛び込む怖さを知ってしまった私にはもう踏み出すことのできない一歩。だからこそ、戻れるなら戻ってしまうかもしれないです。幸せでないとわかっていても、やり直したい道もあるってことでしょうかね。

・今現在

これについては詳しく書くのが身バレ的な意味でちょっと怖いのですが、今大学4年生の私は、就職を選ばず、大学院に進学しようとしています。今までつらつら書いてきたらなんとなくお分かりいただけたかと思いますが、私は教育機関で真っ当に過ごすとか、きちっと会社のルールに則って働くとか、どうも普通の生活がうまくないようなのです。大学は教育機関でありながらも興味のある学びを追求することを認めてくれる、学校らしくない学校です。だから、社会に溶け込めない私はもう少し学びを続けようと思うのです。(もちろん今の研究が面白くてもっと追求したい!という気持ちは大前提としてあります)。ただ、大学院を選ぶところにもたくさんキューになり得る選択肢が広がっていて、私がそのどれを選びたがり、どの扉を神様が開いてくれるかはこれから決まること。だから私はこうして院試の準備をしている今現在も、人生のキューのひとつだと思うのです。文学で大学院なんて私はこの先どうなってしまうのか……とか思わなくはないですが、それがのちにやり直したいキューになるのか、そのままにしておきたいキューになるのか、できれば後者になるようになんとか持っていきたい所存です。

結論

上記に共通しているのは「私は今までの生活をそれほど悪いものだとは思っていない」というところだと思います。もちろん、やり直した先の人生に興味はあります。でもそれって現実の私が選ばなかったから魅力的に見えているだけかもしれないし、やり直した先の私は、今これを書いている私の生活を羨んでいるのかもしれない。そう思うと、人生に正解はないけれど、間違いもなくて、深く考えちゃう人ほど生きづらいのかもしれないなあと思います。先日まで授業で取り扱っていたイタリア人作家の小説は、海の上で一生を過ごした人の物語だったのですが、その人物は「陸には道が際限なく広がっていて、選択肢がありすぎて正しい道を見分けられない」みたいなことを言うんですね。私たちには無数の選択肢が与えられていて、その中からその時々に最善だと思うものを選ぶけれど、選んだ選択肢は本当に最善だったのか。はたまた選ばなかった選択肢は本当に最善ではなかったのか。……いろいろ不信になりそうですね、やめましょう。選んでしまった未来は変えられないので、その選択肢と代償にどう向き合って収めていくのかというところに、これからの自分が生かされるか殺されるかが決まる、という感じでしょうか。

おわりに

はーー、なんだかたくさん書いた。全然うまくまとまらなかった。ところどころ論点すり替わってた気がする。でも書き終えた爽快感はあります。ここまで書いて振り返ってみると、やっぱり自分の文章はちょっとインパクトが弱くて、なよなよしていますね。甘っちょろいことばっか言ってるし、しゃっきりしないし、しけたコアラのマーチみたい。でもこれを書けたということで、私はしばらく矢花くんに嫉妬せずに済みそうです。それに、5000字超えの本気文章を4時間程度で書いたということで、何やら新たな誇りも生まれたようです。期末レポート二つぶん! (勝手にやってろ)。
余談ですが、私のやっている楽器は全長が小学生くらいのちょっと大きめの楽器で、持ち運びはリュックみたいに背負うタイプです。高校生の時、放課後にレッスンがあって楽器を学校に持って行くことがありました。その時学校の前で一緒に信号待ちをした先生に「楽器を持ったあなたの後ろ姿、十字架背負ってるみたいに見えた」と言われたんですね。ひぃ〜〜?!!ってなりました。それ死ぬじゃん!!!って。結果的にわたしは楽器を降ろしたし、その道を歩み直すことはしないけれど、なんだかんだずっと縛られているので、本当はまだ十字架を背負っているのかもしれないです。こんなこと言うとクリスチャンの方に怒られちゃいそうですけどね。
本当は嗅覚と記憶についても書きたいことがあったのですが、これ以上書くと熱を出しそうなのでとりあえずやめにしておきます。
最後に、見ているかわかりませんが、矢花くん。勝手に嫉妬心を抱き、こんな執着のかたまりのような文章を錬成してしまいごめんなさい。なんでも「えっ、ちょっ、woofer887面白いお題キターーー!♪───O(≧∇≦)O────♪」と喜び勇んで書いてしまった節があります。。。こんな文章(文字列)オタクをどうぞお許しください。矢花くんのことが大好きであるが故に深夜テンションで書き上げてしまった文章だと思っていただけたら幸いです。次回の異担侍日報も楽しみにしています!