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にがて

できないことも頑張ってやらなきゃいけないときがある。
私は普段はナヨナヨの根暗野郎なのだが、腹をくくったら大抵のことはやってしまうので、できない、というのは少し違うかも。できないわけじゃないけどやりたくないこと。その代表が取材対応である。そもそも写真を撮られるとか、動画を撮られるとか、自分の姿かたちを残されることが好きではない。だから当然私のiPhoneの中には自分の写真が全然ないし、そもそも人間が写っている写真がほとんどない。人物の写真が上手な人は、一番身近な人間である自分にもちゃんと関心があって、自分含めた”人間”というものをとてもよく観察し、魅力を知っている人なんだと思う。私は写真の中に "人" がいることに違和感を感じてしまって、すぐ画角から外してしまう。
話が逸れたが、つまり私は取材が苦手である。有難いことに上司は私とは真逆の率先して表に出ていくタイプで、気が付くと自分の写真をそこら中に貼っていくような人である。仕事の関係上、取材依頼が来ることが多々あるのだが、基本的にそういう仕事はすべて上司にお願いしている。しかし、上司が忙しいとか先方のご指名とかで、逃れられない時もある。他人が求めることに敏感な私は、インタビューだけなら割と得意なので、もう私の写真とかいいから活字だけにしてくれとも思う。でも世の中には女の子はやっちゃいけないとか、そこまでじゃなくても、女の子が少ない世界だからやめておこうかなって思っている子どもがそれなりにいるみたいで、私が出ることでそういう子たちの選択肢が増えてくれればそれはそれでいいか、とあきらめて引き受ける。本当にできればしたくないけど。

先日、とある監督映画のオールナイト上映に行ってきたのだが、そこにテレビの取材が入っていた。かれこれ一年ほど監督のことを取材しているらしい。上映後に監督からサインをしてもらえるということで、列にならんで待っていると撮影の人が、サインが終わった何人かを捕まえてインタビューをしている。オールナイトに朝まで付き合い、そのまま取材をするのだからテレビは大変な仕事だ。捕まえているのはいかにも熱心そうなファンの人ばかりだし、自分の順番が来る少し前にはインタビューが終わってカメラマンが外に出ていったので、安心しながら監督に感謝の意を述べサインをもらう。嬉しくて「でえへへ」と間抜けな笑いをこぼしながら劇場外へ出ると、そこにはカメラマンがいて「先ほど監督とお話されているのを聞きましたが、ずいぶん昔から監督の作品をご覧になってるんですね」と言ってきた。よく見ると耳にインカムをつけていて、お客さんと監督の会話が聞こえるようになっているようだ。「えーそんなのありかよー」と思いながら、徹夜明けの頭でほにゃほにゃインタビューに答える。ついこのあいだその番組が放送されて、監督が宣伝していたので視聴してみる。一年の取材を30分の番組にしているらしいので、私の話なんて使われんやろと油断して観ていたら、ばっちり使われていて、げんなりした。こんなにも簡単に公衆の面前へ善良な一般人を引っ張り出すんだから、テレビは大変な仕事で且つずるい仕事だ。

言葉にすると物騒な響きになってしまうので、あまり言えないのだが、昔から今この瞬間に死んだ生き物について考えるのが好きだ。気付かれないまま踏みつぶされた蟻、動物園から脱走して飢餓で死ぬカピバラ、仲間の群れのなか天寿を全うし倒れるゾウ。そういった出来事がキーボードで文字を打っているそのたびに地球のどこか同時に起こっているのだと考えること。それは悲しいとか可哀そうではなく、神秘的で奇跡的な出来事のように感じるし、すべての動作をそれに見合うだけの慎重さで執り行うべきだと思えてくる。そしてそれを考えるとき、見えない世界に向かってシャッターを切り続けているような気分になる。見える世界は有限だけれど、思いを馳せれる世界は無限で、できることならその奥行きの全てを記録に収められたらいいのに。誰かを撮る時だって同じで、毎秒毎秒その人の細胞は死んでるし、髪の毛は抜け落ちているわけで、本来ならばその神聖さ全てに敬意を持ってシャッターを切り続けていたいと私は思うのだ。それなのに、いかにもその瞬間だけが特別で興味深いかのように切り取り編集する取材、絶対に許せない。
多分わたしが取材が好きになることは一生ないだろうななどと思いながら、今日も一件取材の承諾メールの送信を済ませたところである。

もし気に入ってくださって、気が向いたら、活動の糧になりますのでよろしくお願いします。