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[個人史]人には闇の部分があるということ

『人生の土台となる読書』用に書いたけど使わなかった文章です。高校生の頃に鬼畜系の本が好きだった話、京極夏彦と村崎百郎の交流の話、などです。

 高校生になっても僕は相変わらず暗い人間のままで、学校は何も面白くなかった。本とゲームくらいしか楽しみがなかった。そして、そんな自分を特別だと思い込むために、ヤバい本を探していた。
 高校生の頃、「鬼畜系」と呼ばれる本が流行っていたのでよく読んでいた。鬼畜系というのは1995年に発行された『危ない1号』という雑誌から始まったムーブメントで、死体、犯罪、ドラッグなど、世の中で眉をひそめられるような悪趣味なものについて扱っていた。『危ない1号』の編集長であった青山正明や、ライターであった村崎百郎といった人たちが鬼畜系の中心人物だった。

 今思い返すと、そんなものを読んでいたのは黒歴史だな、と思う。当時の僕は、そんなアウトローな世界には全く縁がなく、進学校におとなしく通っている内向的な高校生だった。実際に常識を越えた行動をする度胸なんてまったくなかった。
 だけど、つまらない世界とかまともな社会にはずっと不満を持っていて、そんな閉塞感を打ち破ってくれるものを本の中に求めていて、それで鬼畜系に惹かれてしまったのだ。

 ひさしぶりに読み返してみると、当時の鬼畜系の人たちの文章は、アウトローで危険な雰囲気を漂わせつつも、知的で親切なものだったな、と思う。

 この世に真実などない。あらゆる物事は、その内に外に”数限りない物語”を秘めている。そして、それらの物語は、人間様中心の妄想であるという意味で、”全て等価”なのである。だから何を考えても許される。これが当ブックシリーズの編集ポリシーだ。
 妄想にタブーなし!

『危ない1号』Vol.1「はじめに」より

 何をやりたいのかなんて、とりあえずわからなくてもいい。まずは自分の中の、外に向かって取りつくろっているウソを一枚ずつ引きはがして潰していけ。そうやって少しずつ身軽になって人生を楽しめ。楽しくなけりゃあ人生なんてウソだからな。
 己の欲望に忠実に、徹底的に利己的であれ。
 この本はそんな鬼畜的生き方の入門書として、俺の趣味のひとつである「楽しいゴミ漁り」を解説したものだ。

村崎百郎『鬼畜のススメ』前口上より

 世の中のマトモとか普通なんていうのは、ひとつのフィクションに過ぎない。一見まともぶっている大人たちも、みんな人には言えないような闇を抱えている、クダラナイ存在だ。だからそんな奴らの言うことなんて気にせず、好きに生きろ。
 当時高校生だった僕は、そんなことが書いてある鬼畜系の本を読んで、まともぶっている他の大人たちが言わない本当のことを言ってくれている、と痛快さを感じていたのだ。

 村崎百郎というのは、ゴミ捨て場を漁るのが趣味で、いつもゴミ袋をかぶった姿で登場し、「自分は気違いで、常に電波(神の声や悪魔の声)が聞こえる」と言っていた人なのだけど、そんな村崎百郎のエピソードで一番好きなのは、京極夏彦との交流の話だ。
 人気推理作家である京極夏彦と、鬼畜系ライターの村崎百郎。一見何の接点もないように見える二人だけど、実は同じ高校の一年違いで面識があったらしい(村崎のほうが先輩)。ちなみに村崎百郎によると、京極夏彦のトレードマークである指ぬきグローブは、高校の頃から着けていたらしい。

 作家としてデビューしたあとの京極夏彦に、ある日村崎百郎が電話をかけてくる。そこで交わされたのが以下のような話だ。
 (この話は最近復刊された『鬼畜のススメ』のKindle版の1巻に京極夏彦が寄稿している文章で読むことができます)

 村崎百郎は京極夏彦の推理小説を読んで救われたらしい。それはなぜか。
 京極夏彦の代表作である、『姑獲鳥の夏』から始まる百鬼夜行シリーズには、姑獲鳥や魍魎などの妖怪が出てくる。
 といっても非現実的な世界の話ではない。舞台はあくまでこの現実世界で、本物の妖怪が出てくるわけではない。
 このシリーズでは、拝み屋である主人公の京極堂が人間の中に溜まっている歪んだ感情を掘り起こし、そこに妖怪の名前を付けて、解決する(祓う)のだ。これは作中で「憑き物落とし」と呼ばれる。
 妖怪は実在はしないけれど、人間の心の中に生まれてしまうことがある。
 それは、自分に普段から聞こえている電波と同じだ、と村崎は言う。

 「ないものは見えも聞こえもしない。だってないんだから。でも、そういうもんも見えたり聞こえたりすることはある。でも、ないもんはない。お前の小説、そういう小説じゃん。あのさ、ないものはないんだって、当たり前のこと中々書かないんだよ、みんな」
 たしかに、僕の小説はそういう小説だ。

『鬼畜のススメ』Kindle版 京極夏彦「あの日の鬼畜」より

 実際には神も悪魔も妖怪も存在しない。
 しかし人間の心は神や悪魔や妖怪を認識する。
 じゃあ、人間の心が認識するのなら、それはあるのと同じことじゃないだろうか。

「ないもんが見えたり聞こえたりすんのはさ、クルってるからだって。俺がそうだから。でも、みんなそこを否定すんだよ。自分はクルってない、自分だけは正常だって言うんだよ。変な理屈つけて正当化するんだ。心霊だとかオカルトって、そういうもんでもあるんだよ。でもさ、おかしいだろ」
 そう。人はだれでも狂気を呑んでいる。正常だの普通だのなんてものはない。歪んでいない人間なんていないのだ。

『鬼畜のススメ』Kindle版 京極夏彦「あの日の鬼畜」より

 人間はみんな歪んでいて、誰が狂っていて誰がまともかなんてわからない。人の見ているものは全部あやふやで不確かだ。人は簡単に狂気に呑まれてしまう生き物だ。
 一見共通項のなさそうな村崎百郎と京極夏彦は、二人ともそういうことを言っていたのだ。
 社会にうまく適応できなくてどうやって生きていったらいいかわからなかった十代の僕に、鬼畜系の本が強く刺さったのはそのせいだ。
 まともそうに生きている大人たちもみんなどこかおかしいんだ、自分が特別変なわけじゃないんだ、と思うことで、安心感を得られたのだ。

 鬼畜系とその周辺のカルチャーについて論じた、ロマン優光の『90年代サブカルの呪い』では、鬼畜系というムーブメントは、闇や矛盾を抱えつつも綺麗事の建前ばかりが溢れていた当時の社会に対して、

「そんな風に建前を言っているけど、本当は汚い欲望でいっぱいじゃないか。世界はこんなに汚いもので溢れている。お前らが覆い隠そうとしているような人間だって自分の人生を生きている」

ロマン優光『90年代サブカルの呪い』より

 という異議申し立ての側面があった、と評している。


 90年代はすごい時代だったな、と思うのは、そんな悪趣味な内容ばかりを集めた『危ない1号』という雑誌が、10万部以上も売れたということだ。今では信じられない部数だ。
 それは当時はまだインターネットが普及していなかったから、という理由も大きいだろう。
 ネットのない頃は、テレビや新聞などの大手マスコミが報じないような情報を唯一知ることができるのが雑誌だったのだ。メジャーとマイナーの区別がはっきりとあった。覆い隠されている本当のものが見れるかもしれない、と思って、僕は怖いもの見たさで怪しい雑誌を読んでいた。
 だけど、2000年前後にインターネットが普及してからは、全く状況が変わってしまった。どんな情報でも検索すればすぐに出てくるし、マスコミに頼らなくても誰でも情報を発信できるようになった。
 そうして、表と裏の区別、メジャーとマイナーの区別はなくなって、すべてはフラットになった。そうして、あの頃のアングラな雑誌が持っていた独自のカルチャーは失われてしまったのだ。

 当時の鬼畜系の本を今見直してみると、「これは今の基準ではアウトだな」という表現が多い。今よりも野蛮な時代だったと思う。野蛮であると同時に、ヤバいものを無責任に面白がっていられる、平和で呑気な時代でもあった。
 今ではアウトな表現を見ると、つい「昔はそういう時代だったから、しかたない面はある」と言いたくなったりもするけれど、そんな言い訳が通用しないのはよくわかっている。だから黙るしかない。
 黙るしかないのだけれど、でもそういったものに心惹かれた自分の記憶もあって、そんな記憶をどう処理すればいいのか、今もわからないままでいる。

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以下はちょっとした補足です。

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