古代海洋民族の伝説

今、南伊豆の弓ヶ浜に来ている、
かれこれこの場所に通い始めて何年になるだろう、

いままでも何度かこの外洋の海と砂浜を舞台にした文章を書いたことはあると思うがそれはずいぶん前のこと、

今わたしがやってる活動、
オーシャン ヴァア
Paddle for Mother Earth
愛と祈りの航海
”海をアロハを込めてなでる "
E hoe pu me ke aloha
のスピリットの源(みなもと)になっているのは紛れもなくここのマナ、

そしてここでであったクプナ(先人)たちのスピリット、


そしてそれは南伊豆の外洋の海を漕ぎこの弓状の美しすぎる砂浜に上陸した16年ほど前からスタートしたと言っても過言ではないのだ、

ヒロシマ・ナガサキを漕いでつなぐという空間的にはかなりこの場所から遠く離れた土地を平和を願い、この母なる地球のバランスを調えるために海を漕ぐことと、この弓ヶ浜にに立ち祈りを捧げて外洋の海に漕ぎ出していくこととどんな風に繋がりがあるのか不思議に思う人がいると思うので、すこし自分自身の記憶の整理をするためにも話をしていきたいと思う、

過去何年もわたしは、この場所に一年を通して通い続けている、
冬の西風を求めて、春の葉山からのボヤージングで、夏の子どもたちの合宿で、秋の島渡や西伊豆へのボヤージングの拠点として、長年の間少しでも暇な時間があればこの伊豆半島の先っぽに通い続けてきた

今年の冬は昨年のハワイはマウイ島の火災もあり、アロハをハワイ先住民の古都でもあってラハイナに伝えるための祈りと漕ぐことに専念するためにすこしでもマウイに近い場所で祈りを捧げながら太平洋を浄化させるために漕ぎたかったので、この場所ではなくBonin 小笠原父島、母島に行ってしまった、また春はヒロシマ・ナガサキ愛と祈りの航海であらたに出会った素晴らしい同志たちと西日本を漕いでいた、なので、今回は今年にはいって初になると思う、昨年の冬以来だろうか、
また一段と大自然のマナの迫力と今は肉体としてはこの世に存在しないけどスピリットとしてそこにいる太古からのクプナ(先人)たちの叡智とその導きに感動しているのだった、


この南伊豆という場所は強烈な風と黒潮の流れにさらされることにより絶え間なく浄化されている場所だ、


山も険しく深く木々の生命力も旺盛で大自然のマナがはるかに人と物質社会のエネルギーを圧倒している、わたしたちが母なる地球という生命体の一部だということを感じることができる、そんな場所なのだ、

誰でも車で南伊豆に向えばよくわかると思うのだ、
湘南エリアの人混みとコンクリートまみれの場所を過ぎ、時間ごとに進めば進むほど匂いも、目に飛び込んでくる色も景色も、そして音でさえも五感で感じるほどに変化していき、自然のエネルギーが元気になってくることを誰もが感じることだろう、
昭和の高度経済成長期の負の遺産の路線沿いの死にたいのような観光地を過ぎ、コンクリートに覆われた海岸線を過ぎ、赤沢を過ぎ、河津を過ぎたころから、確実に土地のエネルギーが違ってくる、波動というよりも磁場が違ってくるのだ、手足の先がピリピリしてくるほどに大地と宇宙が交差するようにして発するエネルギーが高くなっていくのだ、そしてちょうど下田の白浜神社のあたりで外洋の海と遠くに見える島々とを調和させようとする神秘的で優しい女性的なエネルギーに包まれるのだけど、下田を過ぎたあたりから、またどんどんと純粋な空気に包まれ大自然のエネルギーが増してきて、もう人間ではまったくコントロールできないような高次のマナに溢れてしまうのだ、

海を漕いで来れば、その海の色といい、風の匂いといい、空の色までもが変化していく、海の純粋さの変化はもっとスムーズにだけど確実に違いがわかるだろう、人口の建物やコンクリートが少なければ少ないほど、砂浜の後ろに深い山があればあるほど海のマナは高まり海の豊かさがビックリするほどにましていくのが手に取るようにわかる、目に見えないけども大きな存在をカヌーのなかに感じてくるのだ、

わたしは今まで何度、この南伊豆と葉山の間の約120キロの海を漕いで渡ってきただろう、

時には葉山のカヌークラブのオハナと6人乗りのヴァアでボヤージングとして伊豆多賀や熱海や赤沢、熱川、外浦など色々な砂浜で交代を繰り返し、大地に祈りを捧げながら漕いで行ったり帰って行ったり、

時には一人乗りのV-1 で、強い自分のある想いを表現するために葉山を朝出て一日で満月に照らされながら弓ヶ浜に上陸したこともある、その気持ちは今も揺るがない、つねに自分の魂とともにある、

日照時間が短い季節に熱川で一泊して2日間で漕いでくることも何度かあった、

弓ヶ浜に立ち視界に見える島々はすべて自分一人で漕いで繋いだ、クラブの皆とも島々をこぎ繋ぎ、八丈島からこの浜まで漕いだときの感動はいまだ記憶に新しい、

最初に弓ヶ浜に漕いで来たときのことはずいぶん前のことだけど決して忘れはしないだろう、

それがこの南伊豆、弓ヶ浜のマナとクプナに出会った衝撃的な出来事だったからだ、
海を漕いでわたるという太古の昔から数千年、数万年と続けられてきた人間の営み、太古から人間は歩いて陸を移動することと同じぐらいの頻度で海を漕いで渡っていた、津々浦々、人は漕いで移動していた時代が永遠と思えるくらいの年月続いていたのだ、そんなクプナたちからのスピリットの啓示をうけたといっても過言ではないと思う、


それは、ホクレアが2007年に日本にやってきてから1年ほどしてからだったと思う、まだわたしが今のように葉山に住むまえのこと、茅ヶ崎に住んでいる時だった、今思うとあれはホクレアからの宿題のようなものだったのだろう『duke これははじまりのはじまりだよ』というメッセージを受け取ったわたしは、その意味を模索しながら自分の生き方に疑問を感じながら思い悩んでいる時期だったと思う、自分の真のアイデンティティは何?日本人のアイデンティティとは? と探し求めている時期だったと思う、

どこかで読んだのか、誰かからもらったのか今となっては定かじゃないけども、なにかの記事をコピーした紙を読んだのがきっかけで、この南伊豆、タライ岬を越えた伊豆半島の先っぽにある弓ヶ浜という太古の記憶が残ると言われる場所まで漕いでみたいとわたしは突発的に思ったのだ、

そのコピーに書かれていたことを簡単に要約するとこうなのだ、

『ハワイの先住民でありカメハメハ一族の末裔でもありハワイでも日本のサーフ業界でも有名なレジェンド、ビックウェーブサーファーのタイガーエスプリは涙した、タイガーは言う、ここはまぎれもなくわたしたちの祖先がやって来ていた場所だ、、、』

たしかそんな内容で、彼が涙した場所は南伊豆のタライ岬と弓ヶ浜を訪れた時だったという内容だったと思う、
そしてそこにはある人類学者(考古学者?)と茂在虎男さん(故人)という当時の東海大学海洋学部の名誉教授だったと思う人の説明も書かれていて、 茂在先生が言うにはタライ岬のタライとは地元の人もどうしてタライと呼ぶのかわからないほどに意味不明の呼び名だけど、この南伊豆の地には古代ポリネシア語にすると理解できるようなその土地の特色を表現する名前が多いと書かれていた、そしてタライとは古代ポリネシア語でTalai、今のハワイ語でいうkalai(カライ)のことで、カヌー製造とか、カヌーのメンテナンスという意味がある、まさにその場所はカヌーを外洋に漕ぎいでるまえにチェックしていた場所なんだろう、ということだった、
古代のこのあたりは、弓ヶ浜の海を前方にして裏側にあたる今は住宅地と畑になっている青野川一帯は800年ぐらいまでは広大な内海で、5キロほど奥まった場所まで海で、そこには多くの温泉の源泉が点在していたので昔から海から湯治のために訪れるほどに栄えていて場所らしく、おおくの縄文遺跡や弥生遺跡があることでわかるように太古の昔から海洋民族が住んでいたとということなのだ、そしてそのあたりの地名はいまでも加納(カノー)とよばれている、そしてその奥には加納神社もあり、狩野川があり、そしてこのあたりはカヌー(カノー)という呼び名の小舟の発祥の地に違いないという説を詳しく世界の年代表と照らし合わせながら日本のカヌー(小舟)がいかに世界的にみて古くからあり、おそらく最古だという説明をしていたのだ、そして考古学者の人が言うには、これは科学的にも考古学的にも実証されてることだけど、このあたりの海洋民族はすでに4万年以上まえにすでに神津島(55キロの南の島)で産出される黒曜石を交易のために行き来して内陸地まで運んでいたということが『放射性炭素年代測定法』により証明されてるということで、それはおそらく地球上人類最初の外洋航海(漂流ではない)であり、その航海を流通目的で何度も往復していたおそらく最古の海洋民族なのではないだろうか、という話しで終わっていたのだった、

ハワイにホクレアのような外洋航海カヌーで人類が到達したのがおよそ2500年から3000年前とか言われているので、4万年まえ、というのはそれこそわたしたちが学校で習った頃の歴史でいう原始時代、石器時代、場所によってはネアンデルタール人という原人が地球上にまだ住んでいた時代のことなのだ、

その話に衝撃をうけたわたしは、なぜか電車や車で南伊豆に行かないで、なんとカヌー(OC-1)で漕いでその場所を目指したのだった、まだみぬ、行ったこともない、外洋の海に漕ぎ出していったのだった、北風が強い日だったことを覚えている、オレンジ1個とたしか350MLの水だけを積んで漕ぎ出した、今も結構無謀と思われるようなことをするけども、その当時はまったく外洋を漕いだ経験もなかったのにだ、どのくらいの距離でどのくらいのスピードで何時間がかかるかも考えないで、それも早朝ではなく8時過ぎごろに茅ヶ崎の海から舟出した、9月とか10月ごろで、真夏でもなく、日照時間が決して最長の季節ではなかったのは確かだ、一日で100キロ以上もちろん漕いだこともないのにだ、わたしはきっとなにかに取り憑かれていたのだろう、なにかに呼ばれていた、えたいのしれない大きなエネルギーに引き寄せられていたのだと思う、もちろん地図もコンパスも持たずスマホもなかった時代だ、

果たしてわたしは何時間かかっただろう、ただただその浜と岬を心のめでイメージしながら漕ぎ進んだ、夕陽が西のそらに傾きかけ、太陽が後ろから照らすので岩場なのか砂浜なのか、伊豆の海岸線の景色もわからなくなり諦めかけた時に、なぜが惹かれるようにキラキラと輝く夕陽の道ただただ追いながら僕は漕ぎ続けた、もちろん10時間以上はすでに漕ぎ続けていた、でも疲れはまったく感じなかった、自分が漕いでるという感覚がなかったのだ、そしてもうオレンジ色の夕陽が伊豆の険しく高い山に沈んでいく瞬間のその時に山に消え沈んでいく太陽の真下をふと見るとそこに淡く白く浮き出るような浜が見えたので、まずはそこに避難しようと思い深い湾内に入り漕いで上陸した場所がここ弓ヶ浜だったのだ、
いまでこそそういう奇跡のような異次元の航海は何度も経験あるけども、そのときのそういう自分の力ではなく目に見えない大きな力に導かれながら航海した経験はもちろん初めてだった、

大げさにいえば、その航海がきっかけでわたしのクレアナ(使命)が少しづつ形づくられていったのだと思う、

それからというもの急にわたしの周りが違う方向に動き出した、物質世界の中の私生活が動き出した、

わたしはそれまでのビジネスをクローズし、茅ヶ崎の家を売り借金を返済し、湘南スタイル風のライフスタイルにおさらばして、築100年ちかい葉山の古民家の借家に移り住み今の生き方を始める準備をスタートしたのだった、

それまでの価値観や次元でのものの考え方を止めて、今のような次元でものごとを考える移行の時期だったのだと思う、

それからというもの、わたしは三浦半島の葉山に住みながら対岸にあたる伊豆半島の先っぽに漕いで相模湾を渡って漕いでいくことばかり考えながら過ごしたが、なかなかそのタイミングがおとづれることはなく、最初の数年間は車にOC-1 を積んで息子たちとダウンウインドを楽しむためにこのカヌーの聖地、カヌー伝説の地に通い始めるのだった、

そして今もわたしが代表兼クプナ(長老)として活動するカヌークラブの人数が増えて皆で6人のりのPilialoha で漕いで行けるようになってからは、どんどん南伊豆の外洋の海に魅了され、そしてクプナ(先人)の声に共鳴するように、わたしは妻といまは亡き愛犬クウイポと移り住むことになるのだった、
相模湾のくすんだ海を漕いでいたら目覚めがない、外洋のマナに溢れたピュアな海をひたすら漕いで自分のなかに眠っている古代の海洋民族のスピリットを目覚めさせることで日本人の心に眠っている自然と調和して生きた海洋民族のそのスピリットを目覚めさせるナビゲーターにならなければと、心に決めたのだとおもう、

いまだからこそそう断言できるけども、その当時はなぜ自分がそんな行動をしたのか自分でもよくわからなかったと思う、クラブの活動は葉山が拠点だったので、毎週末のように葉山と南伊豆、大浜と弓ヶ浜を行ったり来たり日帰りしていた、バス、電車、バスを乗り継いでいくこともあれば、車で早朝暗い間に出て暗くなってから返ってくる、ほんとよくやったと思う、そして葉山に帰らない日は、毎日ひたすら朝日とともにE ala e をして一人でこの外洋のきびしいマナにあふれる海を漕ぎ、浜に4人のりのLamakuというヴァアを出してその傍らに座り、瞑想するようにただただクプナに話しかけ、祈り続けたのだった、
そして海が荒れてで海に出れない時は砂浜を裸足で歩きNa aumakua というオリをわたしは唱え続けたの

その修行僧のような、海伏とわたしが呼ぶ 『自然法に』の生活はこの弓ヶ浜で3年続き、そしてその結果わたしはその後漕いで渡った対岸の島、新島にそのまま引っ越すことになるのだけど、その話はまた別の機会にすることにする、

今にして思えば、この春にやったヒロシマ・ナガサキ 愛と祈りの航海 で毎日やってたことをこの南伊豆の弓ヶ浜でやり始めたということに気づいた、

ここ南伊豆は最初にも書いたように、とにかく大自然のマナがパワフルで、母なる地球とつながり、宇宙とつながる感覚が絶大なので、祈りも愛のメッセージも瞬時に世界中に発信され拡散されていくように感じるのだ、

そして、ここに住みながら毎日浜に座り瞑想し祈りを捧げていた時にはほとんどだれもこの海で、わたしの身内やオハナ以外でこの砂浜から外洋へ漕ぎ出す人などいなかったのに、

今週末、明日の日曜日には80人以上の海を漕ぐパドラーとその関係者を加えると200人以上の人がこの弓ヶ浜を拠点に海を漕ぎわたるために全国そして世界中から集まるのだ、

それは凄いことだとわたしわ思うのだ、

昨日までの吹き荒れてた西風は止み、明日は穏やかな海が全国のパドラーたちを迎えてくれることだろう、

この南伊豆のクプナたちが大手をあげて皆のことを迎い入れ喜んでくれている証拠だ

この外洋の海を、4万年前の世界最古の海洋民族のスピリットが今も生々と息づくこの砂浜から舟出してマナに溢れた南伊豆の外洋の海を神々に見守られながら80人以上の人たちが全力で漕いでわたる、それがいかに次元を超えたすごい出来事なのか、それを考えただけでも感動で泣けてきそうだ、

いままでのこの海に魅了され、この海で漕ぎ続けたわたしは、たんにこの次元の出来事としてアウトリガーカヌーの日本選手権というレースとして海を漕ぐだけでは我慢できるはずがない、

もっともっと力強くマナをこめて、全身全霊でアロハ(愛)をこめてこの母なる地球のために海を漕ぐのだ

明日は、この南伊豆に長い間息づいてきたクプナたちにとって何万年も待ちに待った特別な日になるに違いない、なぜならばそのクプナたちのスピリットとともに日本中の海洋民族の末裔にあたる80人のパドラーたちがこの海を漕いで渡るのだから、とわたしは勝手に思うのだ、





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