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ほっちのロッヂの記録3:仕事ができない私と「責任」

2月から、ほっちのロッヂで過ごさせてもらっています。

続けられるかわからないけど、記録できる日はnoteに記録していこうと思います。(早速1日おくれた~)


今日のまなび
①私の能動性について
②起点になることと責任について
③自分の話↔目の前の人の話

①私の能動性について
私は仕事場に適応するのに3か月~1年かかることが多い。今までのバイトやインターンで、能動的に動けるようになるのにそのくらいかかった。高校生活も、1年以上は自分の殻からでてこれない時期が続いたように思う。

今も、無意識に指示を待ってしまったり、考えて手足を動かすのが遅かったりする。あとになってから、ああ、こう聞けばよかった、こう動けばよかった、と振り返る。

私の能動性は、どういうときに現れてくるのかな?と考えてみると、かなり他者からの評価に依存しているような気がした。
無二の存在という役割をもらえて認められたとき、はじめて自分から動くエネルギーになっているような気がした。

他者からの評価に依存しすぎずに、私自身が私の存在を理解し、生かせるようにしていきたいなあ。

②自分起点になることと責任について
この現場は、職種や経験によらず、働き手それぞれがその人起点で自立して動いている/動けないといけない感じがする。
医師が一方的に他職種に指示することはないし、医療者だけが患者さんと関わるのではなく、ロッヂに居合わせる人だれもが触れ合う。

電話対応が、それを表している一つの例だと思っていて、インターンの私でも、患者さんの問い合わせや他機関との連携の連絡を受けないといけない。

ほっちのロッヂに居合わせ、自分起点で動いていく、ということは、責任もセットだということがすごくわかった。
誰も、勝手に自立して自分起点なのでは決してなくて、そこにはその人の考え・価値観・状況の理解・想いがあって、それに責任をもって初めて、自立して、自分起点で動いていける。

私にはまだそこの意識がたりない。電話は不安が勝ってとれないし、指示があったほうが動きやすい。
でも、こういう現場で働いていきたいなと思う。
決められた正解を追って、他人からの評価で立場や役割が決められていくのではなく、自分起点で働く人たちの集合体。
そこには、それぞれの想いと責任を持ち合わせて。
3か月は短いけど、伸びていきたいな。

③自分の話↔目の前の人の話
MTGやカンファレンスの場で、「出来事や客観的な状況」と「そのときの自分の想い、考え」は別にして伝えないといけない。
これはつくばの居場所支援でもよく意識したこと。

特に朝のMTGでは、いわゆるカンファレンスみたいな場で、「客観的な状況」をわかりやすく伝えるお医者さん、看護師さんがかっこいい。自分の話は徹底的にしない。患者さんがそのとき何をして、何を話し、どう思っていたのか、文脈も含めてとってもわかりやすい。

経験が長い方ほど、自分の話は全然しない。
一方で私は、自分の話しかできないな、ということに気づいた。子どもと過ごしてどう思った、こういう気づきがあった、こういう感情になった、という話ばかり。
もちろんその内省はとても重要なのだけど、子どものことを話せないのはいかんな、と思った。自分のためだけにここにいるんじゃない。

それに気づいてから、子どもへのまなざしが少し変わった。自分の感情や考えをいったん脇において、子どもがどう感じているか、一日のなかでどういう感情の変化があって、どうやって表現に現れているのか、そこに神経を使えることが少しだけ増えた。

例えば、ご飯は全部食べないと…と思って、口をなかなか開けてくれなくても、頑張ってスプーンを口の前で待って、時間をかけてご飯を食べた日があった。
でも、「スプーンがあっても口を開けない」という行動は、理由はわからないけど「ごはんはいらない」という表現だったんだよな、と思う。私はその表現を素直に受け止めることができていなかったことに気づいた。

3か月後には、少しでも子どものことを話せるようになっていたい。

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