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語られることを、『語られるままに』わかろうとすること

病気をしてから本が読めなくなり、新聞をよく読むようになった。ところが、時間をかけて読んでみると、興味深い記事が少なくないのだ。たとえばその一つは、朝日新聞で毎週土曜日に掲載されている「なやみのるつぼ」のコーナーだった。読者が自分の「悩み」や「困っていること」を書いて投稿し、上野千鶴子、姜尚中、美輪明宏、清田隆之といったユニークな意見を持つ人たちが、それに答えるのだ。
2023年2月25日には、「『背が低いから』、街でよく衝突される」と、怒りまくる夫に対して、「どのように対応したらよいだろうか」という主婦からの相談が取り上げられていた(※1)。私はこれまで、「クライエントが語ることを、語られるままにわかろうとすることこそが心理療法の柱だ」と主張してきたが、この記事には、この主張と同じことがうまく述べられているので、紹介したい。またこの主張を明確にするために、私たちがいかに頻繁に「人の語ることを、私流にわかろうとしているのか」ということについても述べてみたい。

1.「馬鹿にしやがって、毎日のように人がぶつかってくるんだ」

この記事に相談の手紙を書いたのは、40歳代の主婦である。「人にぶつかられたと怒る夫に、どのように対応したらよいだろうか」というのが相談だ。
彼女の夫は、「毎日のように、路上や駅の構内で、すれ違う人や自転車にぶっつけられたり、突き飛ばされたりする」と、怒りまくっている。ぶつかられるのは、「(私の)背が低いから」であり、「(誰もが私を)馬鹿にしているのだ」と彼は信じている。帰宅後に、「またぶっつけられた! 背が低いから、馬鹿にされているんだ! 馬鹿にしやがって! と、大声で感情をあらわに」する。
実際に突き飛ばされて、怪我をしそうになったこともあるので、「誇張しているわけでもない」と、相談する主婦は思っている。けれども、「学生時代から、馬鹿にされてぶつかられている」、「背が低いからぶつかってくるのだ」という夫の主張には、「思い込みもあるのではないか」、「強調しすぎているのかもしれない」という考えも浮かぶこともある。しかし同時に、「自分が中背なので、主人の思いを充分にわかっていないのかもしれない」という疑いも浮かんでくる。
いずれにしても、「そのような夫に、どのように応じたら助けになるだろうか」というのが、彼女の質問なのだ。
この質問に対して、清田隆之は次のように助言する。
「悪いのは100%加害者です。認識や行動を改めるべきはぶつかってくる側のほうで、被害者に努力を求めるのは理不尽な話です」と明確に主張する。そして、「まずすべきは、夫さんの話を言葉通りに受け取ることではないでしょうか」と言う。「話を言葉通りに受け取る」ことこそ、私が主張してきたことなのである。
清田がこのように助言をするのには、彼自身が小柄であり、「同じ体験をしてきた」ということに支えられている。清田はさらに、「夫さんが受けた被害の苦しみは、想像を絶するレベルです」とも言う。そのような被害に対して、「何らかの対策は必要かもしれません」が、それは「ご主人が、彼女を絶対的な味方であると感じてから」取り組む作業なのだと注意する。なによりも必要なことは、ご主人が「彼女は味方だ」とまず確かに感じることなのである。心理療法も、まず信頼関係を打ち立てることこそが基盤であるが、それと同じことだ。

2.「そうね、でもそれってほんとうのこと」

もし誰かが、「人に押されて、道路側に転んで大怪我をしそうになった」とか、「駅で電車とホームの間に落とされそうになった」と話し始めたら、あなたはどのように受け取るだろうか。
多くの人は、「人からぶつかれられた」ことが一度や二度はあるだろう。だから、「ぶつかられて、手が痛かった」とか、「眼鏡が落ちてこわれた」ということだったら、「そう、そう、私もね・・・」と同情して、自分の受けた被害を語るかもしれない。しかし、「ホームに落とされそうになった」とか、「大怪我をするところだった」とか、それも「毎日のようにぶつかられる」と言われると、どうだろう。 
清田は、同じような体験を自分もよくしていたと述べているが、大多数の人は、それほど「ひどい体験」はしていないだろう。また、「1回か2回くらいの被害」だったのではないだろうか。
だから、「ぶつかられた」という話には同情しても、「大怪我をしそうになった」とか、「ホームに落ちそうになった」とか、「毎日だ」と言われると、「それって、大げさじゃない」と疑うのではないだろうか。あるいは、「それって、テレビで見たことじゃない」、「同情してほしいんだ」、「注目されたいんだ」といった気持ちが湧き起こって、その話を現実の出来事とは信じなくなるのではないだろうか。
そして、「日本人は、人に対して細やかな配慮をするし、そのような無作法な行動は考えられない」という常識を再認識して、「そのようなひどい言動は、私には関係ないのだ」と安心するかもしれない。
しかし私たちの体験世界は、自分が思っているよりもはるかに狭いものである。だから、こころが深く傷ついた体験は、大多数の人はそのまま受けとらず、空想やテレビの世界の出来事としてしまう。そのためにこころが深く傷ついた人たちは、一人で苦しむことになりやすいのだ。

3.「ぶっつかられることはあるけど、大げさだな。×××かなあ、いや、◯◯◯かなあ、それとも△△△かなあ」

「毎日のように、ひどくぶつかられる」と言われると、心理療法家は、まずは「それは大変ですね」と同情するかもしれない。けれども、心の内では「毎日のように、路上や駅の構内で、突き飛ばされるとは、大げさじゃないか」と思うかもしれない。そして、「そこまで言うのは、奥さんから慰めてもらいたいのだろうか」、「いや、いや、人混みの中に自分から飛び込んで、ぶつけられるように挑発しているのかもしれない」、「それとも、自分からぶつかっているんじゃないだろうか」などなど、いろいろな推測をするだろう。あるいは、「子供のときから、親から虐待されてきたので、何でも被害的に受け取っているんじゃないだろうか」とも、考えているのかもしれない。
心理療法家は、「語られることを、そのまま受け取り、そのまま信じるのは素人だ」、「語られたことの裏に隠されている真実を推測して、それを聞き出していくのが専門家なのだ」と信じているのかもしれない。「語られたことを深く読む」のが専門家であり、目標は「語れたことの裏に深く隠されていて、本人さえも意識できていない真実を探り出すことだ」と信じているかもしれない。 
本誌に訴えられたように、「毎日のように、路上や駅の構内で、すれ違う人や自転車にぶっつけられたり、突き飛ばされたりする」と聞けば、多くの人には信じにくいことだろう。人のいろいろな苦しい体験を聞く機会が多い心理療法家にとっても、ここまで言われれば疑ってしまいやすいのである。それに、心理療法家は、「言われたことのすべてを、まず疑うのである」。
たとえば、「お父さんが、とても好きです」とも言えば、「わざわざ『好きです』、それも『とても』とつけ加えるのは、その裏にすごい『嫌悪』、あるいは『敵意さえ』が隠されているのではないか」と推測し、「父親に対する嫌悪感や敵意」という隠された感情を探し出そうと務めるかもしれない。
訴えられたことには、「何か重要なことが隠されている」という姿勢が基盤にあるのだ。だから「これこそ×××だ」とか、「これこそ◯◯◯だ」、「いやこれが△△△だ」と感じられるまで、その人の言うことを「そのまま信じない」のだろう。そのよう感じは、自分が学んできた理論、あるいは自分の知識と一致することで得られる。だから、心のありようや、人の人生や考えを新たに学ぶよりも、心理療法家としての誤った自信を深めてしまう。目の前の人よりも、本、あるいは自分を信じているのだ。心理療法家には、2つのタイプが有るようだ。経験を積むと、自信を深めて「高い椅子」に座る心理療法家と、自分が万能ではないことを深く受け入れて、対象者と「同じ位置」、あるいは「少し低い位置の椅子」に座る心理療法家がいるのだ。
「毎日のように、路上や駅の構内で、突き飛ばされたりする」という訴えをそのままわかってくれる心理臨床家もいるだろう。しかし、次に言われるのは、「それでは、人が少ない道を歩くようにしたらどうでしょう」とか、「歩く人が少ない時間に変えてみませんか」という提案かもしれない。「俺が悪いわけじゃないのに、なぜ俺が変えないといけないのか」、「俺が受けてきた屈辱感はどうしてくれるのか」と「不平等感」や「屈辱感」で怒りが燃え上がるにちがいない。

4.「それは、空想です」

心理療法家になるには、経験の深い心理療法家の指導を受けながら、いろいろなことで苦しんでいる人たちの心理療法に取り組む臨床体験が欠かせない。それと同時に、これまで心理療法を実践してきた専門家の実践記録や彼らが構築した理論も学ぶことも必要である。こうした努力は心理療法家として成長するために欠かせないのだが、そのために心理療法が行き詰まってしまうこともないわけではない。
その一つに、女性から「肉親や親密な人から、性被害を受けた」と訴えられたら、「そのまま受け取ってはいけません」という教えがある。そうではなく、「そういう訴えは、実際に体験されたことではなく、その人の無意識の性的衝動から沸き起こった空想なのである」と、長く理解されてきた。そのような例を上げてみよう。
心理療法家として成長するための訓練として、自分が心理療法を実践した事例を発表して、参加者がその心理療法の進め方について話し合う「事例検討会」がある。そこでの話し合いを、取り上げてみたい。
話し合いの中心となる講師は、伝統的精神分析の訓練を受けた経験の深い精神分析家だった。事例を提供したのは、訓練を受けている若手の心理療法家だ。
クライエントは、高校生女子である。心理療法家に信頼感を感じるようになってからのことであるが、彼女は「私がお風呂に入っていると、お父さんがお風呂の前の廊下をウロウロするんです。一度だけですが、私がお風呂に入っているのに、お風呂場に入ってきたこともあります。『ごめん、ごめん』と出ていきましたが、お父さんは私の身体を見ようとしていたのです」と泣きそうな声で訴えた。
ここで講師は、すかさず「お父さんは、彼女の身体を見ようとしたのではありません。『お父さんが、私の体に関心がある、私に性的な関心を持っている』というのは、『彼女の空想なのです。それは、思春期になって強くなってきた彼女の無意識な性的衝動から生じたものなのです』」と解説した。「彼女の訴えを、空想として理解することが重要ですよ」と、強調したかったのだった。
隣りに座っていた同僚は、「えっ、お父さんが成熟しつつある娘さんの体を見たいということもあるよね」と小声で私にささやいた。私も同じ感想だった。
1970年代になって、アメリカで心理療法家(精神分析家)ではない精神科医たちが、統合失調症と診断して治療してきた人たちのなかに、どうも経過や状態が統合失調症とは違うように思える人達がいるようだと再検討を始めた人たちがいた。そこから、こうした人達の中に、「多重人格」を始めとした「解離性障害」の人たちが含まれていることがわかってきた。しかもそうした人たちの多くが、近親者や親しい人たちから「性虐待」をはじめとして種々の「外傷体験」を受けていたことが明らかになった。
この発見から、フロイトに始まる精神分析家が「近親者から性的虐待を受けたという訴えは、実際に起こったことではなく、訴える人が空想したものである」という伝統的な考えが訂正されることになった。わが国にも、上に述べた「事例検討会」の10年ほど後になってこの発見が受け入れられ、あのときの講師も「こういう訴えは、実際に経験したこともあるし、空想されたことでもあるので注意してください」と、説明するようになっていた。
この発見が出発点となって、種々の幼児虐待、性被害、いじめなどなどの被害者が、我が国でも注目されるようになったのである。
このような経緯も、「語られることを、『語られるままに』わかろうとすること」の重要さをしめすものである。

心理療法を学び始めた頃は、私の取り組み方は3で述べたように「それは、×××かなあ、いや、◯◯◯かなあ、それとも△△△かなあ」というように、「相手が話してくれること全てを疑い、その裏に隠されているに違いない真実を探し出そう」とするものだった。しかし幸いだったことは、経験の深い心理療法家から指導を受けることができたことだった。
ある時、熱心に取り組んでいた人との心理療法を「非常なエネルギーと熱心さで、あらん限りの知識を込めて報告した」ことがあった。ところが指導者は、「縦にも、横にも首を振らず、何も言わず、ただ私を見ていた」だけだった。最後に「それでは、時間ですから」と言われて、「これだけ頑張ったのだから、少しは褒めてくれてもいいのに」と恨みがましく思って立ち上がろうとしたら、「この人は、生きるということを、一生懸命に考えているのですね。この人の言うことには、納得できます」と言われたのだ。力が抜けてしまったが、この言葉が、心理療法家としての私の出発点となった。それから半世紀の実践から得たのが「クライエントが語ることを、語られるままにわかろうとすることこそが心理療法の柱だ」という主張だったのである。
私は心理療法の実践よりも長く、トランペットの演奏をしてきた。森有正だけでなく多くの優れた音楽家たちが、「最高の演奏は、楽譜に書かれたままに演奏することである」と述べているし、私も頭ではそう信じている。演奏を始める前には、自分に強くそう言い聞かせるのだが、いざいざ演奏を始めると、もろもろの邪念、妄想、欲望が沸き起こり、それに支配されてしまう。演奏が終わると、「またやった、お前は妄想の塊だ」と自己非難でいっぱいである。今では少しは、進歩したかもしれないけれども、どこかで「年を取ったのでエネルギーと邪念する力も衰えてきただけだ」と思うこともある。
心理療法も同じである。「語られることを、『語られるままに』わかる」のが最も望ましいのだ。こう言うとある人から、「そう言われても、語られることがさっぱりわかりませんが、そうすればよいのか」と言われたことがあった。私も「さっぱりわからないことばかり」だ。しかし、「理屈や理論でわかろうという妄念にとらわれるのではなく、『わからないことは、わからないのだ』と受け止め、『いつか、なるほどそうだったのか』とわかるだろうという希望を持ち続ける」ことにしている。臨床心理学を学ぶ人は、幼児期から「とてもよくわかる」人が大多数で、「わからない」ということには耐えられないのだろう。(TI)

※1 朝日新聞be 2023年2月25日版掲載 悩みのるつぼ 街でよく衝突され「背が低いから…」と夫 清田隆之さん「私も経験」

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