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気まぐれな断想 #2

 言葉を恐れる/畏れること。言葉は、自分の思い通りにならない。自分が「言いたいこと」を、自分が発する言葉で申し分なく言いおおせることができたと感じる瞬間は、あまり(滅多に?)訪れない。何を言っても、どんな言葉を使っても、「言いたいこと」を満足に言うことができないのに、私たちが発した言葉は、もう取り消すことができない。「言いたいこと」を満足に言えないどころか、言うつもりもなかったことが口から飛び出したり、自分が発した言葉を、相手に曲解されたと感じることさえある。

 言葉を発することは、時には、とても危険なことだ。それは、けっして取り返しのつかない行為である。「言いたいこと」は確かにあるのに、それを適切に言い表す言葉やフレーズが見つからないとき、適切に思える言葉やフレーズが見つかったとしても、それをどのように声として発すればいいのかわからないとき、人はしばしば沈黙を余儀なくされる。「言いたいこと」を、誤りなく相手に伝えたいと強く思うあまり、人は言葉を失うことがある。

 相手の話が、同じようなところを、同じような言い方で、ぐるぐると回り続けているように感じられることがある。それを聞く私たちは、「どうして同じ話ばかりするのだろう?」と不思議に思うかもしれない。しかし、例えば、相手は、その言葉やフレーズを、自分が言いたいことを直接的に言い表すために発しているのではなく、自分が言いたいことの輪郭を象るために、いわば間接的に言い表すために発しているのかもしれない。相手は盃について話しており、私たちにもそれは盃の話として聞こえているのだが、相手は実際には、二人の人物の横顔について話をしようとしているのかもしれない。しかも、相手自身もまた、自分では盃の話をしようとしているつもりで、何度話してもうまく話せていない、相手に伝わっていない気がしているのであって、自分が話そうとしているのは二人の人物の横顔につてであることなど、夢にも思っていないかもしれない。しかし、何かの拍子に、盃の話に聞こえていたものが、私たちに二人の人物の横顔の話でもあるように思えたとき、二人の間には、本当に何かが通じ合ったような経験が生じるのかもしれない。

 言葉は、そしておしなべて表現は、常に多義的である。そこには、万華鏡のように、コンテクストが変化するごとに違った意味が立ち現れてくる。ある言葉、あるフレーズ、ある身振りには、その人の自覚的な、また無自覚的な思いが、そしてその人が生きてきた歴史が織り込まれ、折り畳まれている。私たちが相対する、クライエントの表現とは、そのようなものであると、私は思う。(KT)

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