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仮面ライダーリバイス総括

仮面ライダーシリーズを愛好して最早20年を越えようとしているのだが、いつからだろうか、個人の趣向としては現代の仮面ライダーシリーズのシナリオが伝えようとしているメッセージをどう受け取ることが出来るかという観点はとても大事にしている部分だ。

幼稚園のころ玩具を買ってもらいながらブラウン管のテレビで応援した555など昔の作品も容易に見返すことが出来るようになって「今でも通ずる普遍的なメッセージだなぁ」と感じることもあるし、逆に今毎週放送している最新作の最新話をみることで時代性を持った今だからこそ届けられるメッセージについて考えることもある。

仮面ライダーシリーズは基本的に新作の制作発表や各種メディアで「今年のテーマは〇〇です」と公言することが多い。連載漫画のように漠然と始まってある程度ストーリーの大枠が見えてきた段階で漫画の持つメッセージ性が浮かび上がってくることが多いのとは対照的に、大きくテーマを掲げ明言し、そこから逆算して玩具やスーツのデザインを決定して一般層にお披露目する。

「時間」「恋愛」「欲望」「化学」...さまざまな題材を掲げながらそれについて、仮面ライダーが玩具を駆使しながら格好良く戦いつつも、多様な角度から掲げたテーマについて考察して1年間の総括として繰り出す。時には「ゲーム」と「医療」のように二つ以上のイシューを掲げて、一見関係なさそうなテーマ達が混ざり合うシナジーを楽しめることもある。

さて、今年の「仮面ライダーリバイス」は「悪魔・家族・銭湯」三つの要素をキーワードとしたとメイン脚本の木下氏は述べていた。

結論から言ってしまおう。あくまで個人の意見としてはこれら三つのテーマがシナジーを生み出したメッセージを上手く出せていたとは言えなかったかなと思う。思うが、要所要所では好きになった要素もあったのでここに自分の言葉としてリバイスの総括を書き記していきたいと思う。

短期的テーマの連発と曖昧な定義

個人的に感じるリバイス最大の問題点は、敵の戦う目的や一輝たちがそれに抗するテーマに対してシナジーや統一性がないため短期的に発生しては短期的に解決して終わりという流れが何度も繰り返されてきた点にあると思う。

当記事では以下に別の問題点も述べていくが基本的にはこの問題から派生している。つまりは個人的に私がリバイスに感じたすべての事故の根本的原因なのだ。

もっとも短期的テーマの連発という構成自体は仮面ライダーの作劇としては珍しくない。特に平成2期前半のW~ウィザードまでの2話完結にゲストのお悩みを解決していくフォーマットは非常に顕著に出ていて、例えばオーズでは「今日のゲストの一般人は〇〇という欲望を持っていてそれが暴走してグリードが出てきてゲストが痛い目をみて映司が諭したりアンクが鼻で笑ったり」と非常にざっくりではあるがこのような構成が取られた。

ネコヤミーは「食欲」が暴走した話であったが、食欲の話自体はそれでキッパリと終わりその後も映司たちが食欲についてダラダラ考えている訳ではない。それでその話は完全に終わったし触れられないのだ。

しかしオーズを最後まで観れば明らかなとおり、これらは「中庸こそが美徳」という最終結論を出すための前振りの一つなのだ。欲望というスケールの大きなテーマを細分化して食欲にスポットを当てて、食欲の話はそれで終わりなのだけれど欲望というより大きな概念のお話は続いているのである。

リバイスは短期的テーマが終了した際に本当にキッパリとその話を忘れてより大きな概念の補助線にくわえていくような構成を感じづらいまま進行してしまうような印象がどうしても拭えなかった。大テーマの細分化した結果の小さなテーマという印象が薄く感じるのだ。

序盤こそは一般人の心の弱い部分をデッドマンズがバイスタンプで顕現させて怪人化。それを倒しては一輝が「おせっかい」として倒してそのゲスト一般人を諭していくというそれこそ平成2期前半に似た構成が取られていた。

加えて大二のコンプレックスが実体化したカゲロウ、自分の弱さから目を背けていたさくらの弱さの象徴としてラブコフなどの様々な「心の負の部分」の実態としての「悪魔」の話をしていたと解釈できた。

我慢の時代だからこそ、予期せぬ悪魔のささやきが聞こえやすく、堕ちやすい。そんな自分に潜む悪魔を自覚し、咀嚼し、整える。そんな力を身につけて欲しい。人が人であるために、子供たちがこれから生きていくために必要なこととして、個人的に作品を通して伝えたいことです。その比喩表現として、「悪魔」を持ってきたのも、そんな想いからです。

https://www.kamen-rider-official.com/collections/36/1

しかし、肝心の主人公の悪魔バイスが肉体の主導権を握ってしまうジャックリバイスの一連の事件では年越し前の話を踏まえると不自然な点が出てくると個人的に感じた。

ある種のペルソナの話をしている前提だとしたら、あるいは第一話で具現化して真っ先に母親を食べようとした場面を踏まえても、バイスも一輝の何らかのネガティブな感情の象徴であると考えるのが自然と思っていたのだが、ではその象徴が肉体の主導権を持ったのにも関わらず、悪意のある行動を取ることが無かった。(これは下記に述べる年越し前に信頼のおけるバディの話をやり切ってしまった点も関係していることは留意しておきたい)

そしてバイスの出自が18年前にベイルが起こしたしあわせ湯の火事の際に家族を守りたいという一輝の願いから生まれたということが明かされる。

では視聴者である私は勝手に前提を作り過ぎていたのではと認識の修正を図る。悪魔は「心の闇」一辺倒の存在ではなく、もっと広い意味での外的存在——言わばイマジナリーフレンドのような存在なのかだろうか。

しかし、ホーリーライブでカゲロウを倒した大二は善悪のバランスが崩れ独りよがりな正義を掲げてしまい一輝達と対立してしまう展開が32話~45話のかなり長い時間をかけて描かれた。ここでカゲロウが戻ってエビリティライブになることで「心の闇といえど必要悪」という話をして再びペルソナの話に戻ってしまう。

本来のカゲロウにとってそのことは忸怩たる思いがあるはずなのですが、どこかで許容してしまっていた自分がいた。それは大二から「優しさ」を知ってしまったから。そしてかつてのように「非情に」戦えなくなった、そんなカゲロウにとって、自分の想定にない暴走で大二の寝首をかくことは、美学に反するのでしょう。そうなる前に「非情さ」を大二に継承し、自ら身を引くに等しい戦いを挑んだカゲロウは紛れもなく「優し」かった。

https://www.kamen-rider-official.com/collections/36/27

この大二とカゲロウの物語で伝えたかったことは2つ。人は失敗を繰り返し、そこから学び、道を軌道修正していく、何とも周りくどくて面倒な生き物です。でも、それが成長と、成功と、幸せを呼び込むプロセスだと思っています。誘惑も、選択肢も満ち溢れる今、特にこれからの未来を進んでいく子供たちには、面倒だけど楽な道を進まないで欲しいなと。自分の進みたい道に対して、途中で障害もたくさんあると思いますが、納得するまで自分の悪魔と『自問自答』して下さい。

https://www.kamen-rider-official.com/collections/36/45

さらに最終話ではバイスは消滅、さくらたちは「いずれ悪魔と別れる時がくるのかもしれない」と言って物語は幕を閉じる。個人的にはエビリティライブの一件を考えると「悪魔」が本人の人間的成長によって解決できる(≒別れる)未熟さの象徴としてしまうのは、「自問自答していく悪魔」として扱ってしまったのならば、ニュアンスが異なる気がしてしまうのだ。

大二「俺たちの悪魔もいつか消えてしまうのかな...」
さくら「でも、悪魔との別れは悲しいことじゃないんだよね」
大二「自分が成長するためには必要なことだ」

第50話

「悪魔テーマ」一つとってみても作中における意味が、ある区切りの中で変化していって連続性の意味で新しい話をしている時に前の話との文脈の整合性が無いような違和感を強く感じるようになっていった。

個人的に私が見たかったのは、例えるなら水族館のイワシの群れのように個々の要素がいくつも積み重なって全体として大きなテーマを語っていく物語だった。

しかし、リバイスと言う作品はテーマ性・メッセージ性という観点においてはどうにも集まったイワシの数は同じなのに一匹ずつ入れた水槽が何個も並んでいるような、繋がりがなく荒涼としたイメージが強くなってしまった。

キャラクターの位置エネルギーの消費の早さ

短期的にテーマが立てられては短期的に解決してしまう構成に連なってもう一つ感じた問題は、キャラクターの位置エネルギーの消費速度が速くて枯渇してしまうことだ。

バリッドレックスはバイスを心配するのではなくて信頼することでスタンプが完成した。ボルケーノレックスはバイスとの絆を確かめ合うことで変身した。ジャックリバイスがローリングバイスタンプの想定外の動作で主導権が握られたあとバイスが一輝を信じて狩崎の案に乗り、適合性の高いレックスバイスタンプを応用して主導権を交代する。サンダーゲイルは片方が消滅する可能性があるデメリットがあるが、一輝とバイスの一心同体感が強いため無事に元の二人に戻れる。

一輝「お前は今日まで俺との契約を守って一緒に戦ってくれた。ここで応えてやらなきゃバディじゃない」
一輝「俺はお前を信頼する」

(第13話)

一輝「もうわかってんだろ。お前は俺を裏切らない」

(第18話)

一輝「バイス。俺は狩崎さんを信じる。だからお前は狩崎さんを信じる俺を信じてくれ!」

(第24話)

狩崎「理屈で言えばクロウバイスタンプと同じでどちらかが消滅してしまう。だが、一輝とバイスは大二とカゲロウより一心同体感が強い!」

(中略)

一輝「ありがとう。俺の大切な友達、バイス。これからは俺が君を守るよ

(第28話)

無論これら4つの展開においては「前回よりもより深い絆になった」という説明をすることで、強度面においての差別化を図っていることは理解できる。しかし今作は最初は油断ならないバディモノとして一種の危うさを牽引力にしてスタートした点もまた事実であろう。

一輝「俺と契約しろ!変身して欲しければ俺の言うことを守れ!」
バイス「うーん...聞かなければ?」
一輝「死ぬまでこのまま戦い続けてやるよ。お前を道連れにしてな!」

(第2話)

信頼のおけるパートナーになるという話をバリッドレックスの時点で早々に消化してしまい、後のイベントをすべて絆がより強くなったという強度のみを高くしていって話の流れで盛り上げていくには、同じ題材を使っているが故に磨耗してしまい、食傷気味に感じられることは避けられないように感じた。

あるいはキャラクターの相関図を取ってみても同じ構図が繰り返されてきたように思われる箇所があったと感じた。

例えば14話時点でヒロミさんの憧れの上司であった若林司令官は1話時点で死亡してすり替わっていたことが判明。

その後二重スパイでオルテカ側だった山桐千草の「あなたはフェニックスの正体を知らない」という言葉を受けて不信感を抱いていたタイミングでヒロミさんは赤石長官とオルテカが繋がっているという場面を目撃したのにも関わらず「フェニックスには裏がある」という具体性の欠ける言葉で退場してしまった。

上記の状況をまとめると、恩人である若林司令官を喪ったヒロミが腐った組織・フェニックスを探っていくという構図である。

続いて殆ど情報が乏しい中で大二がこのポジションを引き継ぐ。恩人であるヒロミさんが生死不明になり、大二が腐敗した組織のフェニックス(と赤石長官)を探っていくという構図になっているが、ヒロミが持っている情報が大二に引き継がれなかったため盤面が振り出しに戻っており視聴者として映像の新鮮味に欠けてしまうのだ。

また2回目の構図においてキーパーソンになったのは朱美さんだったはずなのだが、展開の都合上やむなく殺されてしまったという非業の末路を辿ったのにも関わらず、大二が「一輝が朱美さんを殺した」と誤解して激情した場面を最後に、誤解が解けたりヒロミさんが帰還した後に誰一人一切言及しないのは流石に違和感が強く残った。

大二「朱美さん無茶しないでください。朱美さんに何かあったら、ヒロミさんに申し訳が立ちません」

第32話

大二「お前らあああああ!なぜ朱美さんを手にかけた!?」
一輝「違う、朱美さんは...」

第37話

決断や展開の曖昧さ

そしてもう一つ短期的エピソードの単発によって作中における決断や展開に説得力が生まれていないという問題がある。

例えばギファードレックスの誕生する話では、ギフの細胞を採取するための朱美さんが寸でのところで赤石長官に殺害されてしまったことで、プランBとして原初の移植された細胞の保持者である三兄弟の父親=元太を使ってギファードレックスバイスタンプのインジェクション手術を実行することにした――という流れになっている。

しかし、危険な手術故にあと数パーセントのところで元太が苦しみだし、手術現場に駆け付けた一輝が強引に手術を中断する。

一輝「二人とも、すみません。父ちゃんの命が犠牲になるならこのスタンプは使えない」

第38話

丁度世界が「自由なき平和(≒ギフに服従し戦略的退化を受け入れるFENIX側)」と「平和なき自由(≒犠牲が出てもギフに徹底抗戦するWEEKEND側)」の二項対立で物語が進んでいく中で「世界か父ちゃんか」というよりミニマムな形での二者択一が一輝に迫り、一輝はギフを倒す力を得るより父親の命を取る。

ここまではいいのだが、しかしこの後力ずくでスタンプを分離させたことでスタンプは完成したことになり、ギファードレックスは完成。ミニマムな状態での二者択一を両取り出来る選択肢を生み出せる理屈が存在していないのにも関わらず誤魔化して「自由と平和を一つに!」というフレーズだけが先行してしまい全く説得力が生まれていないのだ。

総力戦の46話、圧巻でしたね。一輝たちがギフから守ったものは、自由や平和ではありません。それは、人間の尊厳です。人間の内には必ず悪魔が潜んでいる、つまり人間こそ悪魔であるということを認め、自制し、種として生きながらえていく権利です。

https://www.kamen-rider-official.com/collections/36/47

その後ギフを本当に撃破した後の公式ブログを読む感じでは、自由と平和の二者択一で葛藤していたら、これらは尊厳という概念で一つに出来る(だから両取りできる)という弁証法的理屈で二者択一を迫るギフを打開できるとしたかったのかもしれないが、「尊厳」自体作中で一言も出てきてないワードなのでやはり説得力が生まれていないと言わざるを得ないと個人的に思う。

終盤のキャラクターの愛嬌

とまぁここまでリバイスの個人的問題点を述べてきた。

やはり異なったテーマが融合したり共鳴し合ったりする痛快さは残念ながら出せてるとは言えないだろう。

要素の取捨選択をせずに盛り込んでいった結果キャラクターがその都度のテーマに振り回されて、一貫した人物像を終盤まで出せずにいた。

逆に言うとメッセージを繰り出す尺が無くなった結果余白の尺として愛嬌のある描写が増えた終盤は個人的には結構この作品の好きな部分だったりする。

個人的にそれが最も顕著なのが、牛島光だと思う。WEEKENDの牛島家として偽の家族を演じる息子役でかなり序盤から出ているのにも関わらず今一つ影が薄かった彼が、かなり強引な尺運びでオーバーデモンズの変身者としてなった時は正直私の最初の印象は仮面ライダー鎧武最終回の邪武レベルだった。

その後もアギレラやさくらに対し妙に一言多い演出が続き「なんやねんこいつ!!!!」と毎回のように思っていたのだが、FENIX勢力に牛島家の母と父が次々と殺害され、どのようなオリジンでWEEKENDになったなどの前提描写はまぁまぁ足りないながらも「疑似家族に想いを託された疑似ではない本物の戦士」というある意味家族テーマに沿った文脈を帯びながら、可愛げのあるおしゃべりキャラとして成長した(と個人的に感じた)

「『アギレラ』じゃなくて夏木花さんですよ」

第36話

「どっちが多く倒せるか勝負します?」

第37話

「花さん。きれいな顔が台無しですよ」

第38話

また赤石長官というキャラは中盤を牽引した強力なキャラクター性を持っていたと言えるだろう。

正直文芸的にキャラを立たせたというよりは演者の橋本じゅん氏の個性的な演技やアドリブにかなり助けられてる部分は否めないのだが、それでも大二を執拗に痛めつけて屈服させたり、特に第40話の牛島太助との一発撮りのシーンは鬼気迫る演技力でこの作品屈指の名シーンと言っても過言ではない。

また大二と牛島父とのやり取りを経て太古から生きる不老不死という超然としていた人物が家族という人間臭い愛着を感じてしまう繊細な機敏など、光くんと同様にライブ感を経る中で徐々にキャラクター性を掴んでいったと言えるだろう。

赤石の敗因は、まさしく大二への偏愛。偏愛の芽生えは太助の今際の攻防によるものであり、芽生えた想いは無謀なリバイスとの直接対決を生み、その戦いは、不老不死であったはずの赤石に恐怖を植え付けた。無敵であったはずの強者が堕ちていく様をなるべく無様に描きたいという私たちの考えと、演じる橋本さんの想いが合致して、「あっけない」赤石の最期となりました。

https://www.kamen-rider-official.com/collections/36/44

設定やキャラクター造形は魅力的なポテンシャルを持った人物も決して少なくなく、あとは文芸面が一貫性が持たせられさえすればもっと好きになれたキャラクターが沢山いたのは惜しいところだったと思うし、是非冬映画やVシネマなどで追加の深掘り描写が欲しいところである。

まとめ

というわけでリバイスの個人的総括は以上である。

述べてきたように短期的テーマを連発してしまった結果、キャラクターの一貫性や深掘りに使うべき尺が大きく削がれてしまったとは思うが、一方でポテンシャルも感じれる要素は随所にあったのが非常に勿体なかったと思うところが結論である。

なにより不安定な世の中で1年間無事に最終回まで辿りつけたことは良いことだと思うので今後も先輩作品としてどうにか頑張って欲しいと思う気持ちでいっぱいである。

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