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仮面ライダーゼロワンの考察

令和仮面ライダーシリーズの始まりの作品にして人工知能との共生というモダンなテーマを掲げてスタートした仮面ライダーゼロワン。5月に入りそろそろ物語を畳みにかかる準備が進行しそうな時期ではあるが、どうにも自分の中で評価が乏しい。

自分の中で不満点を一つ絞って挙げるとするならばカタルシス(またはこれからカタルシスが得られるんだろうなぁという期待を持たせてくれるような重い展開)が足りないように感じる。

そこで本記事では当作品のプロデューサーを務める大森敬仁氏(以下大森P)の歴代仮面ライダー作品との展開と比較しながら今のゼロワンに何が足りないのかを考察したいと思う。

歴代大森P作品

大森Pがチーフプロデューサーを務めた過去の仮面ライダーは3つある

・仮面ライダードライブ
・仮面ライダーエグゼイド
・仮面ライダービルド

この3つに共通する要素として過剰に露悪的な絶対悪が中盤~終盤にかけて登場しラスボスを務める一方で味方サイドは序盤では対立していた相手、グループとその悪を討伐するために団結していくという展開があげられる。

ただしその悪が登場してからの話の巻き取り方には若干の差異がある。

ドライブ
仮面ライダードライブの実質的なラスボスを務めるのは蛮野天十郎/ゴルドドライブである。終盤にタブレットから解放されて実体が登場して以降、当初は犯罪を重ねていく機械生命体だったロイミュードは幹部格を中心に一方的に凌辱されて辱められていく。そうしていくことで視聴者の感想は「かわいそう」といった同情的な気持ちや、蛮野に対するヘイトを募らせていく感情にスライドしやすい作劇になっていくのがこの作品の終盤の特徴ではないだろうか。

過剰エネルギーを一身に受けて爆死したブレン、真実の愛を思い出してハートと進ノ介に未来を託したメディック、詩島姉弟を守り散っていったチェイスといった重い展開を重ねに積み重ねていよいよ最後にチェイサーマッハが友情と奇跡の力で引導を渡すことで強烈なカタルシスとして解放した。

蛮野はいまだに掲示板等でも荒れやすい賛否両論のキャラクターであるが私個人としてはそこまで嫌いではない。というのも確かにあまりにも露悪的で観ていて胸糞は悪いのだが、ゴルドドライブとしての活躍話数は7話分と短く、またここまでの話の前段階として仁良光秀が存在しており「人間の悪意こそが真に恐ろしい」という作品メッセージが徐々に明確になっていた点が一つ。そしてここまで悪性に振り切れると「あぁ、いかにもスカッと倒されそうだなぁ」と思っていた点が一つである。そして実際スカッと倒されたので最終盤の展開としてはドライブは平成ライダーの中でもそんなに悪くないんじゃないかと思ってる。

エグゼイド
仮面ライダーエグゼイドのラスボスは檀正宗/仮面ライダークロノス。中盤で黒幕として暗躍していた檀黎斗が消滅して以降はパラドが仮面ライダークロニクルという史上最悪のゲームの支配権を握り、3クール目まではパラドが無邪気に命を弄ぶタイプの悪役として配置されていたが、正宗という「ゲームの運営」というより強大な権力が登場しパラドもやがて支配される側にスライドしていく。自分としては個々のキャラの掘り下げ(主に永夢)がやや浅い印象を受けるが、いわゆる「二人のマイティ」に代表されるように命を救う医術という1つの大義の元に当初はバラバラだった登場人物達が主人公の永夢と共闘していく画作りが魅力的な印象だった。

また檀正宗の活躍話数は14話分と蛮野の丁度倍あり結構長く、もっと言うとここで取り上げている3作品の中では悪性やカリスマ性に乏しいのだが、こちらは5話目にして最強のハイパームテキが登場して以降檀正宗は「いかにハイパームテキに変身させないか」という作戦にシフトしていく。そうして人質→パラド消滅の画策→リセット→セーブ→ゲムデウスと融合→レベル1で分離 と言った風に矢継ぎ早に繰り出されるメタ張り・屁理屈合戦の応酬で長く君臨させるラスボスとして飽きさせない作りになっていた。

ビルド
仮面ライダーのラスボスはエボルト/仮面ライダーエボルである。こちらは檀正宗よりさらに長く17話分。実際はそれよりもさらに前からブラッドスタークとして暗躍しており第33話で仮面ライダーエボルに変身してから最終回に至るまである意味全くぶれることなく相互理解不能な悪として君臨していた。

ビルドは中盤にかけて同じ展開を繰り返しをしていてその中で戦兎と万丈のバディとしての強度を高めていく作りが印象であった。エグゼイドほど「展開の飽き」に対する配慮はそこまで感じないのだが、無慈悲に地球を滅ぼそうとする宇宙人というキャラクターには金尾哲夫氏と前川泰之氏の演技が光り、いい塩梅のカリスマ性を持たせることに成功している。

そしてそうした同じ展開の繰り返しの中で戦兎、そして作品として掲げるヒロイズムを繰り返し強調していくことで最終回にフックを掛けていく。そうした作劇には短所も含めた自覚的な一貫性があるといえるだろう。

では今のゼロワンはどうだろうか

この3つと比べた時、今のゼロワンに足りないのは話の構造化の単純化ではないだろうか。というのも上記の「単独の悪」を配置する手法はその対象のヘイト管理が繊細になるのと引き換えに(実際ゴルドドライブは過剰過ぎた)主人公がどこを向いて最終的にどこに着地すればいいのかという勢力図がシンプルになって観易くなるという利点がある。

現在のゼロワンは人工知能を否定する天津や負のシンギュラリティに導く衛星アーク、さらにそれに従って被支配層(≒ヒューマギア)の解放を掲げる滅亡迅雷.netそしてそんな彼らに夢を持つようにアシストする或人など全員がバラバラの方向を向いて動いている。更に当人であるヒューマギアはゲストそして個体別に登場しているせいか、一般的なヒューマギアのある程度数の固まった意思表示をこちらとしては読み取ることが出来ないし、その割に群像劇としてキャラ立ちというか個々の信念の様なものが弱い印象を受ける。

余談だが同じく人工知能ロボットが意思を持ち始め人間と同じようにふるまった時彼らに人権はあるのか、といった似たようなテーマを掲げた「Detroit: Become Human」というゲームがある。こちらは3人の異なるスタンスの人工知能ロボットの群像劇となっており、ゼロワンとセットで考察すると面白いかもしれない。

閑話休題

絶対的な悪が不在の代わりに中途半端に悪い存在が3つくらいあるので視聴しても誰に感情移入すれば、どこに着地するべきなのかが全く定まらず、ちぐはぐな印象を受けるのは私だけだろうか。

これからの予想(期待)

とするならば、やはり過去作に従ってラスボスを早々に示して一致団結していく方向が安牌ではないだろうか。既存の手札だと天津は型落ちのフォームにも負け始めるようになっているのでエボルトの様なカリスマ性にはやや欠ける。となると人間の悪意をラーニングしてしまった衛星アークが肥大化し人間、そしてヒューマギアに牙をむく展開(ヘルヘイムの森のように実体そのものは存在しない悪意をイメージすると分かりやすいだろうか)にして丁度エグゼイドが命を救う医療という目的のために一致団結したように、あるいは蛮野という共通の悪の為に協力体制を敷いたロイミュードのように、人間と人工知能が手を組み討伐してくれるような流れになると、話がシンプルになって観易い気がするので今のところはこのような予想にしておきたい。

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