時間をかけると幸せにー『偶然と想像』(の題名)について
濱口竜介監督の映画『偶然と想像』を見てから、八ヶ月くらいが経ちました。フォーラム仙台という劇場で二回見ました。三つの短編のうちの最後の一話は、私の住んでいる仙台で撮影されています。
このあいだ、ロケ地として出てくる「かつどん家」に久しぶりに行ったら、映画のポスターが貼ってありました。
とんかつ定食を食べながら眺めていたら、『偶然と想像』って結局どういう意味だろうと、そのとてもシンプルな題名が逆に不思議に思えてきました。
「喫茶ホルン」に置いてあったパンフには、監督のこのような発言が載っていました。たしかにこの作品は、あり得たかもしれない世界をめぐって人と人がどのように関わるかを描いた映画でした。
「何かが「起きた」世界と「起こらなかった世界」が共に見えてくる」という意味では、第一話のあるシーンがとても印象に残っています。
主人公はある若い女性。友人の新しい恋人が自分の元彼で、喫茶店で三人が会う場面。最初は元彼とよりを戻す宣言をして、友人と決別しようとするのですが、店を出た友人を追って、彼も出て行ってしまう。
そこでカメラがズームインして、もう一度引くとなぜか時間が巻き戻っていて、今度は友人と元彼を祝福するようにして自分が店を出る……という同じシチュエーションの反復を、ある種のトリックを使ってワンカットで撮っているシーンです。
二回繰り返される出来事のどちらが「起きた」か「起こらなかった」のかははっきりとはわかりませんが、その両方がまさに「共に見えてくる」ような、不思議な、というよりほとんどショッキングな場面でした。
私はこの、時間を巻き戻すように「同じシチュエーションを繰り返す」というかなり極端な(しかもあからさまに韓国の映画監督、ホン・サンスを意識した)演出がなぜ、全7話で構想されているこの短篇集の一番最初に置かれているのか、ずっと気になっていました。
『偶然と想像』では三つの短編すべてに「何かが「起きた」世界と「起こらなかった」世界が共に見えてくる」ような、偶然にうながされた想像の行為があらわれます。
第一話では、先ほどの「同じシチュエーションを繰り返す」、第二話は大学の研究室で学生が教授の書いたエロティックな「小説(テキスト)を朗読する」、第三話は、見ず知らずの人の昔の恋人の役を引き受け「知らない誰かになりきる」。
どれも素晴らしく感動的な場面なのですが、あらためて考えてみるとこの三つの出来事には、一つの共通点があります。
それは、どれもが「反復可能(もしくは反復そのもの)」な行為であるということです。
なぜ反復が可能なのか? それは、これらの行為が「再現」(もしくは「上演」「代理」つまり「リプレゼンテーション(re-presentation)」)だからです。
映画のなかで想像をすることは、あるシチュエーション、テキスト、キャラクターを「再現」するアクションとしてあらわれます。
「同じシチュエーションを繰り返す」「朗読する」「他人になりきる」……反復可能なそれらはつまり「演じる」ということ、そのものです。
『偶然と想像』の登場人物たちは、あり得たかもしれない世界を、演じることによって想像するのです。
濱口監督にとって「演じる」ことは一貫したテーマですが、では『偶然と想像』におけるそれは、一体どのようなものなのでしょうか。
あるインタビューによると『偶然と想像』の「基本的なコンセプトは時間をかけること」だったそうです。
『ドライブ・マイ・カー』のアカデミー授賞式を報じた記事にも「時間をかけると少し幸せに」という見出しがあっておもわず微笑してしまいましたが、その他の場所でも監督は、時間をかけることの重要性について度々語っています。
「時間をかける」ことには、映画業界の労働環境を改善することをはじめ、もちろんいろんな意味があると思いますが、濱口監督の映画にとって特に重要なのは、本読みやリハーサル、リテイクを何度もできるということ、演技を繰り返せる、やり直せるようになるということではないでしょうか。
濱口監督にとっては、時間をかける、繰り返す、演じる、がひとつにつながっているように思えます。それを一言で、濱口竜介の「演出」と言ってもよいでしょう。
そのような演出によって、役者は、映画は、具体的にはどのように変化していくのでしょうか。監督は、そこで「声」に注目し、繰り返すことによって生まれるものを「複声」という言葉で表現しています。
これは作家・中上健次の言葉を、『うたうひと』にも出演している民話採訪者・小野和子さんが引用したことが元になっています。
監督の著書『カメラの前で演じること』からの孫引きですが、以下に記します。
濱口監督は『ハッピーアワー』の現場でおこなった繰り返しの本読みで、役者の声がだんだんと「分厚い声」になっていったことについて、それは民話の語り手の声のように、あるコミュニティに暮らす人たちやその歴史を背負った一人のものでありながら同時に複数であるような声=「複声」だったのではないかと書いています。
時間をかけると、声が「分厚く」なる。繰り返すことによって一人の声が同時に沢山の人の声になっていく。
濱口監督が「時間をかける」のは、役者たちの声を「複声」にしていくためだと、ひとまずは言えるでしょう。
そして、実際に現場で何度も撮影を繰り返すこと=リテイクも、それ自体がまた「複声」的な事態ではないかと思います。
あるカットの撮影を何度繰り返したとしても、採用されるテイクは基本的に一回だけです。しかしそこには、選ばれなかったいくつものテイクが、何らかのかたちで画面に背負われているはずです。
「特に大事なシーンは、予備日も含めて必ず2日以上とるようにスケジューリングしていました」と語る濱口監督は、テイクを重ねることについてこう言っています。
さりげない発言ですが、とても重要なところだと感じました。これは例えば、後から撮られた「テイク13」が、すでに撮られている「テイク2」を変えうるという意味にもとれないでしょうか。
繰り返すことは、かならずしも「完成」という高みへ登っていく上昇ではないはずです。「複声」の複数性は、過去から未来に向かって直線的に増えていくようなこととは別のものであると、私は考えています。
編集の際、同じシーンを繰り返し演じたすべてのテイクを見終わった時に、映画監督はまさに「偶然と想像」の接点にいます。
それは「何かが「起きた」世界と「起こらなかった世界」」が共に見えてくる」、「起きた=OK」と「起こらなかった=NG」が並列であるような場所です。
「テイク2」は「テイク13」の反復になりうる。そこでは撮影され確定したはずの過去が、「OK」と「NG」のあいだに、多義的なものとしてあらわれます。
映画においては「未来」が「過去」を変えることがあります。編集とは、それらの「接点」に立って世界を注視することです。
そのような編集を経た「OK」テイクは、(撮影順の前後にかかわらず)反復されたすべての「NG」と響き合うような「複声」の厚みを待っていることでしょう。
この点において『偶然と想像』にあらわれる「反復」の意味もまた、別の角度から見えてくるのではないでしょうか。
「時間をかけること」が「繰り返すこと」なのであれば、「基本的なコンセプトは時間をかけること」である作品自体が、「反復可能(もしくは反復そのもの)」をあらわしているとも言えるでしょう。
逆に言えば、三つの短編それぞれに「反復」があらわれるのは、そもそも『偶然と想像』のコンセプトが「時間をかけること」だからではないでしょうか。
そして、映画の入り口である第一話に最も異様な、直接的な繰り返しがあらわれるのは、むしろそれが「反復そのもの」だからであり、わざわざトリックを使ってまでワンカットで撮られているのも、部分に分けられない持続によって、それを「反復そのもの」そのもの、として提示するためでしょう。
「時間をかける」ことは「繰り返すこと」、「繰り返すこと」は「演じること」、「演じること」は「「起きた」世界と「起こらなかった世界」が共に見えてくること」……。
それは「起きた=OK」が「起こらなかった=NG」を背負うような「複声」であり、あったものとあったかもしれないものが「共に見えてくる」という点で、まさに「偶然と想像」です。
だとすると、実務的な段取りの話にも聞こえる「時間をかける」ということは、作品の最も根本的な部分、あのシンプルなタイトルの意味、それ自体だったのかもしれません。
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