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映るものもまた音楽-『ロッツ・オブ・バーズ』予告編にかえて

『ロッツ・オブ・バーズ』について

12月15日と21日、東京ドキュメンタリー映画祭2022の短編コンペティションで、監督作『ロッツ・オブ・バーズ』が上映されます。
仙台のバンド・yumboの澁谷浩次さん、ソロアルバムの記録です。

「東京ドキュメンタリー映画祭2022」
短編8『ロッツ・オブ・バーズ』
12月15日(木)16:20 / 12月21日(水)10:00
会場:新宿ケイズシネマ

※2023年1月26日追記
東京ドキュメンタリー映画祭 in Osakaでも上映していただけることになりました。2月28日(火)11:50-です。リモートですが舞台挨拶もある予定です。

https://tdff-neoneo.com/osaka/lineup/lineup-3039/#movie02


今回、映画祭での上映に際して、予告編代わりに冒頭の5分間を公開しましたので、よかったらご覧ください。

『ロッツ・オブ・バーズ』(冒頭の5分間)

この作品には、いわゆる「音楽ドキュメンタリー」的なレコーディングの様子やインタビューだけではなく、スタジオまでの電車の風景や、澁谷さんが家で映画を見ているところなど、曲とは直接関係ないシーンも多く含まれています。

どうしてそうなったのか(結論から言えば「結果的にそうなった」のですが)、自分でもよくわかっていなかったので、改めて作品を振り返ってみて考えたことを、制作の経緯など含めて書きました。

制作の経緯

私は仙台に住んでおり、yumboのライブにも震災後からよく足を運んでいます。
何度かライブの記録を撮らせてもらう機会があったのですが、音楽はもちろん、映像のなかでの澁谷さん(たち)の佇まいがとても心地よく、ずっとyumboか澁谷さんについての記録を作りたいと考えていました。

2020年の秋ころ、澁谷さんが初めてのソロアルバムを作っているという話を聞いて、ぜひ撮らせてくださいとお願いをしました。
噂に聞いていた瀬川雄太さんのスタジオ、SMALL COW FIELDS STUDIOSを見てみたいというのもありました。

この時点では、特に映像記録を「作品」にしようという考えがあったわけではありません。
「とりあえずレコーディングを見てみたい」というのが第一で、撮影はそこに居させてもらうための口実のようなものでした。

最初の撮影。澁谷さんとエンジニアの瀬川さんが、二人で深夜までひたすら音を重ねていく作業のかたわらで、私はただただカメラを回し続けました。
その時間は奇妙なほどに心地よいものだったのですが、それが実際どういうことだったのか、今まであまり考えてきませんでした。

今回はソロアルバムということもあって、バンドの一発録りではなく、ピアノ・シンセ・ベースなどを澁谷さんが一人で演奏し、何度も音を重ねていくオーヴァー・ダビングで録音されています(ドラムとギターは瀬川さん)。

それは、映像にはピアノだけ、ベースだけ、歌だけの録音しか映らないということでもあります。
完成した音楽は、ミックスされた録音のなかにしかないわけで、画面に映るのはどこまでも未完成のソロ、断片だけです。

そのことは、音楽ドキュメンタリーとして考えると弱点のようでもありますが、私はむしろそこにこそ、映画における音楽としての力を感じました。
映っているものがどこまでも「未完成の断片」であることが、逆に「音楽」を撮ることを可能にしているように思えたのです。

『ロッツ・オブ・バーズ』

「音楽は映らない」

私は、映画に「音楽は映らない」と考えています。

音楽はそれぞれ固有の時間を持っていますが、映像にはまた映像の固有の時間があり、映像のなかに組み込まれたある曲は、あくまでも「映画のなかの音楽」になり、(必ずしもネガティブなことではありませんが)元の曲とは別の時間を持ってしまう。

つまり、同じ曲でも別のものになってしまうという意味で「音楽は映らない」。

「音楽ドキュメンタリー」と呼ばれる作品は、好きなミュージシャンやバンドであればその内容は楽しみつつ、どうしても「映画」としては私は乗れないのですが、おそらくそんなことが理由なのでしょう。

「未完成の断片」であるオーヴァー・ダビングでのレコーディングを撮ることには、「音楽」を映像で見せるというよりも、演奏に「アクション」としての意味があらわれます。
それが完成した音楽ではないことが、むしろカメラの前で行為する人間と空間を映す。
もしも映像で「音楽を撮る」ことが可能だとすれば、そういった「不在」を明らかにするような仕方によってではないかと思うのです。

そして、レコーディング中のある日、今回のアルバムは楽曲ごとにモデルとなる人や出来事があるということを、澁谷さんから聞きました。

地元を離れるときに会った昔のバイト先の女の子、今は会うことのかなわなくなった友人、兄など、澁谷さんとさまざまな人との出会いや別れの記憶が、それぞれの曲・歌詞に結晶しています。

こんなふうに自分の生きてきた過去を見つめ、言葉にし、楽曲にすることができるなんて、と私は感動しました。
そして、このアルバム自体がすでに一個の「ドキュメンタリー」なのだと思いました。

それなら、背景を説明したうえで楽曲とともに歌詞を見せれば、ただそれだけで澁谷さんについての一個の作品になるのではと考えはじめました。

『ロッツ・オブ・バーズ』

歌詞と風景

今回のアルバムは全編英語詞で、映画のなかで曲が流れる部分には日本語のテロップをつけていますが、その背景になっているのは、おもに電車の風景です。

そもそも『ロッツ・オブ・バーズ』になぜこんなに電車のシーンが出てくるのか、自分で撮っておいてなんですが、よくわかっていませんでした。

当初はもちろん、電車で撮影しようということすら考えてはいませんでした。レコーディングを終えて仮眠をとり、電車に乗って仙台に帰る途中の朝の光が美しく、せっかくだから撮っておくかと思いつきでカメラを回しただけでした。

そのほかにも、澁谷さんが家で映画を見ている場面や、自身のお店「喫茶ホルン」でカレーを作っているところなど、直接音楽に関わらないシーンがいくつも出てくるのは、おそらく「音楽は映らない」ということをあらわすにはどうしたらよいのか考えていたのでしょう。

『ロッツ・オブ・バーズ』

音楽の中にある生活

そうやって「ひとまず撮る」やり方で見えてきたのは、音楽が、レコーディングや、演奏、作詞・作曲の時間にだけあるのではないということです。

当たり前といえば当たり前ですが、澁谷さんのさまざまな時間を撮らせてもらって、強く実感したのはそのことでした。

生活の中に音楽がある。だけでなく、音楽の中にも生活がある。
逆に言えば、電車に乗る、映画を見る、料理をする、それらがなければ生み出されないものこそ、音楽であるということ。

だとすれば、映画に「音楽は映らない」のがたしかだとしても、せめて「映るものもまた音楽」と言うことはできる。

『ロッツ・オブ・バーズ』はそんなふうに演奏・歌詞・生活を通じて、映らない「音楽」を照射する、「映るものもまた音楽」と言うための作品なのかもしれません。

深く考えもせず好奇心だけで撮っていましたが、今になって思い返すとそんな気がしてきます。

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