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舞鶴の東西

ある日の金曜日、ふと映画が見たくなって偶々入った映画館にて「ラーゲリより愛を込めて」を見た。嵐の二宮和成と北川景子が主演という豪華な出演陣による映画で、ラストシーンではまんまとボロ泣きしたのだけど、「日本人」の目線だけに偏ったストーリー仕立てになっているのが気になった。

その翌日、大陸から戦後に引き上げてきた人が最初に行き着いた舞鶴の町に行って見たくなったので、朝一番の高速バスに乗って、舞鶴を訪ねてみた。


教養人としても名高い武将 細川幽斎の城下町として栄えた西舞鶴。東郷平八郎率いる海軍のまちとしてひらかれた東舞鶴。東西のまちは、電車でたった10分しか離れておらず、壁があるわけでもないけれど、成り立ちも雰囲気もどこか異なるような。


東の舞鶴

神戸三宮駅から高速バスにのること約2時間。バスの終着点である東舞鶴に降り立つ。ぶらぶらと港のほうに向かって歩いていると、土曜の朝だったので束の間の休暇を楽しむために、町に繰り出す白い水平服を着た自衛隊訓練生とすれ違った。

東舞鶴は、日本海の防衛の砦として東郷平八郎が基地を置かれてたことから、以後は軍港として栄えた町である。現在は、港の右側に自衛隊の育成学校と基地があり、育成学校からバスで10分行ったところには、第二次世界大戦後に朝鮮やシベリアからの沢山の引揚者を乗せた船が着いた入江と引揚記念館がある。

東舞鶴駅からローカルバスに乗って引揚記念館に向かう。途中、綺麗な桜並木を抜けたところで、海がわに鉄格子向こうに自衛隊の育成学校が見える。引揚記念館では、シベリアを中心とした大陸に、第二次大戦後に捕虜として収容された本人とその家族の歴史、そして彼らを温かく迎えた舞鶴の人々の歴史が刻まれていた。ただ、「日本人」の戦争哀歌がうたわれていても、この国の加害性については記されない。多くの朝鮮人捕虜やからゆきさん、英国・ドイツ人戦争捕虜など、多くの人々がこの舞鶴の港を、いろんな思いを抱えて出入りしたというのに、と入江の散歩道を歩きながら考える。

バスに乗って、東舞鶴の街に戻る。重厚な塀に囲われた基地と入隊を煽るポスターが目に入る。バスの中でのガイドアナウンスでは「自衛隊」「赤煉瓦軍事倉庫」「引揚記念館」「豊かな自然」を並べて魅力的でかけがえのない観光地スポットとして紹介される。この町では、それらの矛盾がごちゃ混ぜになって存在している。その矛盾の氾濫に眩暈がしてくるが、そんなことには目が行かないように、観光地というベールが掛けられ、無かったことにされている。


東郷平八郎の日本海軍の基地と、今の自衛隊の基地は
同じ思想のもと地続きになっていないだろうか。
爽やかな海風が吹く中、静まり返る入江。

西へ続く→

西の舞鶴

東舞鶴駅から電車に乗って西舞鶴駅へ向かう。細川幽斎が城下町を築いた西舞鶴の町は、東舞鶴よりも町の歴史は古く、まちの真ん中には今も城郭が残り、かつての名残を感じる街並みとなっている。

細川幽斎といえば、古今和歌集の解釈を伝える秘事「古今伝授」を唯一受け継ぐ大切な後継者であったことから戦国の世の中で命を拾われたという一風変わった経歴をもつ戦国の大名だ。

幽斎は武術だけではなく、茶の湯や和歌など文化にも通じた大名だった。戦国の世の中に生まれたにも関わらず、「言葉」の価値を信じ、昔の人々の心を詠んだ古今集を伝えた彼は、こんな歌を残している。

古も 今も変はらぬ 世の中に 心の種を 残す言の葉  ー 細川幽斎

変わらない悠久の時の流れの中に、心の種を残すことを大切にした人物。
そんな彼を慕って、幽斎が関ヶ原の戦いで50日間にも及ぶ籠城を強いられた時に、夜更けにこっそりと食料を届けた漁師たちがいた。幽斎は戦が終わって、世の中が落ち着くと、籠城の時の恩を返すために、この漁師たちにために町に住処を築いた。それまでの世では、漁師たちは船で寝起きし、住所を持たない民であったが、以後その町は漁師町として栄えた。

心種園にある古今伝授の松

いかにも昔話らしい(よくできた)語だけど、西舞鶴の商店街でふらっと入った小さな書店「舞鶴堂」の本棚のラインナップが良くて、幽斎が育てた言の葉の断片を見つけたような気がした。

この本の他に『からゆきさん 異国に売られた少女たち』森崎和江著なども置かれてた。


幽斎は「戦の見返り」として漁師に港を「与えた」けれど、それから400年という歳月が経った現代、漁師たちがただ自由に行き来できる港になっているだろうか。幽斎の伝えた文化の「解釈」と「生かし方」を履き違えてはないだろうか。舞鶴から帰るバスの中で浮かんでは消える疑問たち。

今も幽斎と漁師たちが築いた漁師町が残っている

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