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ミノス王家の女性たち(Ⅳ)

セネカ(前4?~後65)の悲劇『パエドラ』は、
家庭のドラマ。女神たちはすでに去って
その姿は舞台になく、登場人物だけが
紀元後一世紀、皇帝ネロのローマに生きる。

戯曲の冒頭、
ヒッポリトゥスの台詞に
当時の青年貴族が愛好した
狩猟の光景が彷彿する。

「行け」森や林に
「駆けめぐれ」野を
「よじ登れ」丘に
シカ、牝ジカ、コジカ、イノシシを追って
動詞の乱舞。

猟犬たちも、
獲物を嗅ぎ出すもの、吠えたてるもの、追い詰めるもの
犬種に応じて各々の役割を果たす。
狩人たちはといえば、弓や槍、長槍、投げ網で武装して
円形競技場で死闘を繰り広げる剣闘士たちも、かくや。

狩りの女神ディアナへの頌歌もそこそこに
ヒッポリトゥスと従者たちが慌ただしく退場すると、
代わってパエドラが、乳母を従え登場する。
タキトゥス(C.Tacitus、55~120)描く
ローマの貴婦人を思わせる堂々たる抑揚で
誇り高く謳うのは、実家、ミノス王家の豊穣の島
「おお偉大なるクレタ、千尋の海をすべるもの」

       *     *     *

伝説の王家の女性たちの恋は
しかしセネカによれば
例外なく不倫の恋であった。

牡牛との間にミノタウロスを儲けた
パシファエは、ミノス王の妃。
その娘アリアドネも、もともと
ディオニッソス神の妻であったのに
テセウスに心奪われ、彼とともに出奔、
アテナイに向かう途中
エーゲ海に浮かぶディア島で
乙女神アルテミスの矢に討たれた、とも。
ホメロスに言わせれば「身持ちの良くない美女」(*) 
                  (*)『オデュッセイア』Ⅺ, 322
そしてパエドラ。
アテナイの王テセウスの妃でありながら
義理の息子に恋をする。

そもそも
ミノス王家の女性たちの”道ならぬ”恋は
ウエヌス神、舞台にはついぞ姿を現さぬ
愛欲の女神の意趣返しであったと
作者はいう。

ことの起こりは
女神ウエヌス自身の軍神マルスとの恋。
二神の逢瀬を目撃した太陽神ヘリオスは
女神の夫、鍛冶と火山の神ウゥルカヌスに
それを知らせた。ヘリオスはパシファエの父
アリアドネとパイドラーの祖父である。

ウゥルカヌスの外見は、妻ウエヌスの対極。
ギリシャ・ローマの男神たちに求められる
理想的な姿とは程遠い。とはいえ
金属細工の腕にかけては右に出る者はいない。
夫神はさっそく細い金属糸で網を編むと
密会の場の褥の上に天蓋のように吊るした。
愛欲の女神と軍神とが抱き合うや、天蓋は落下。
その下で、二神は、もがくことさえままならない。
すかさず寝室の扉が開かれると、見物に招かれていた
オリンポスの神々が顔をのぞかせ、
爆笑、哄笑、やんやの喝采。
この恥辱をもたらしたヘリオスを
ウエヌスは許せなかったらしい。

とはいえ不倫の恋の苦しみをミノス王家の
太陽神にゆかりある女性たちすべてに
味あわせるには無理がある。

パシファエは、神話世界に生きた半神女。
幾多の伝説に彩られたアリアドネも
ナクソス島へ彼女を迎えに来た
ディオニッソス神と結ばれて不死の存在となり
その宝冠さえ星座に変じて夜空にきらめいている、と
オウィディウスは歌っている。

残るはパエドラ。
彼女だけが現実世界に取り残された。

帝政ローマは厳格な家父長制社会。
家父たちは、往々にして自身の素行に目をつむり、
女性たちには良妻賢母であれと求める。
夫を裏切り、そのうえ
こともあろうに義理の息子に心奪われるなど
決してあってはならぬこと。
国家の最小単位たる家庭の秩序を覆す
まさに反社会的行為。
世故に長けた乳母が養い子を諭したように、
当時の社会規範からすれば
「獣に恋する方が、よほどまし」……。

       *     *     *

ギリシャのパイドラーが、
ポプラの梢をわたる春の風にも
かたわらを流れるせせらぎにも
ついぞ恋人の名を漏らせずにいたものを、
ローマのパエドラは、人払いして
ヒッポリトゥスと二人きりになるのも厭わない。
その親密な席で、義理の息子が「母上」と呼ぶと
若い王妃はこう返す。

    母とは、またあまりに大仰な、偉そうな呼び名。
    より慎ましい名こそ、今の私の思いに適う。
    ヒッポリトゥス、私をあなたの姉妹と、いいえ、
    むしろ奴隷と、あなたの女奴隷と呼んで頂戴[…]

そして提案、否、むしろ懇願する。
長旅から未だ帰らぬ老王テセウスに代わって
彼の妻である私を娶り、王位を襲うべき、と。

ヒッポリトゥスが拒絶するや
パエドラは義理の息子が帯びていた短剣を奪い、
自ら命を断とうとする。

若者は出来事に驚愕し、
おぞましさに慄きつつ、走り去った。
義母の手から払い落とした短剣を
その場に残して。

ヒッポリトゥスとの攻防で
髪も衣服も乱れ、立ち尽くすパエドラ。
乳母はとっさに養い子の名誉を守ろうと
ヒッポリトゥスの狼藉を叫び、
大声で助けを呼ぶ。

折しも、テセウスが帰還。
自死に固執する妻に理由を質すが返答はない。
乳母を強いて真実を聞き出そうとする夫に
パエドラは義理の息子が捨て置いた短剣を示し
偽りの”狼藉”を示唆する。
老王は憤激、息子を追放に処したばかりか、
怒りにまかせて青年の破滅を海神に願う。

悲劇の終局、
慌ただしく駆け込んできた伝令が
ヒッポリトゥス遭難の一部始終を物語る。

二十世紀、「残酷演劇」を提唱した
アルトー(Antonin ARTAUD、1896-1948) は
アリストテレスのいう悲劇の二要素
「恐れと憐れみ」のうち「恐れ」を
舞台に喚起される”血”と捉えた。
セネカの『パエドラ』中、百行余におよぶ
<伝令の語り>はアルトーの演劇理論を先取りする。

テセウスに応えて
海神ネプチューンは巨大な牡牛を遣わした。
濁った土の色をした怪物に、
馬たちは怯え、制御不能。
転覆し粉砕された車の残骸とともに
手綱を握ったまま御者は引きずられ、
石に岩に全身を打ち付けられ、
棘ある草や灌木の小枝に引き裂かれて
昨日までの面影すら留めず、青年は
父の館に運び込まれた。

瀕死の若者を前に
パエドラは恋人の涼やかな眼差しを追い、
もはや逢えない双眸のあの星のきらめきを
求めて嘆き、やがてテセウスにすべてを明かすと
変わり果てたヒッポリトゥスに寄り添い
「あなたに代わって自分を罰する」と
形見の短剣で自らの胸を刺す。

パエドラの抑えがたい激情は、
彼女自身が言ったように、火の山エトナのマグマ。
地の底に貯まりに貯まり、ある日、耐えきれず噴出する。
情念の火砕流は理性を押し流し、堰を切ってほとばしり
身体に燃える焔は鼓動し、脈打ち、流れる、
生命の色を映して。

朱(あけ)に染まった妻の亡骸に
老王テセウスは呪いを浴びせる。
「土中深くに埋けられて、大地の重みを受け
邪悪な心よ、永く押し拉がれてあれ」と。

ミノス王家の末つ姫は
こうして滅び
セネカの悲劇『パエドラ』の
血塗られた舞台に
幕は下りた。

       *     *     *

空(から)の迷宮。
馬を駆るアッティカの勇者が討ち取った
牛頭人身のミノタウロスは、
果たして滅び失せたのだろうか?

人間は、脆弱な身体にもかかわらず
頭脳によって自然を凌駕したとされる。
しかし、頭脳が獣のそれに代わる時
身体はその支配を免れない。

迷宮を去ったミノタウロスは、
七曲りの回廊の果て、
無数の扉に閉ざされた
人の心の深奥に
新たな迷宮を見い出し
そこを住処としたのではなかったか。

<怪物>は
秩序正しい人の世にとって異形のもの。
それゆえ用心深く隠匿され、
必要とあれば抹殺されねばならぬ。

人間社会が
近代国家と呼ばれ、
絶対王権のもと
宇宙の秩序を映すがごとき美と調和を
人間社会に具現しようとする、
まさにその時を待っていたかのように
怪物は現れる。

人間存在を見つめるモラリストたちの世紀
とりわけフランス十七世紀、
思索者パスカル(Blaise Pascal、1623~1662)は
『パンセ Pensée 』(1670)に
現代では文脈から離れ
箴言となった一文を残した。

     心は、理性が与り知らぬ
       自身の理(ことわり)を持っている。(277)                       

パスカルと同時代を生きたラシーヌは
彼のパイドラー=パエドラを
1677年、パリで初演する。
『フェードル Phèdre 』。

全編十二韻詩で編まれ、厳格な作劇法と
簡素なまでに凝縮された語彙によって
構築された演劇空間。
その透徹した光のなかに
引き出される怪物たち、
人間存在そのものの内に潜む
あまりにも美しく愛しい
ミノタウロスたち。

彼らと出会うのは、
セネカの『パエドラ』の
幕が閉じてのち、
千六百年あまり
先のことである。

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