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恋の神の恋

むかしむかしのギリシャに
小さな国がありました。
王さまとお妃さまには、三人の娘。

上の二人も美しい王女でしたが
末の姫プシュケーは、
人間の女性とは思えないほど、
神々しいばかりの美しさです。
美の女神ウエヌスの化身?
うわさはいつのまにか ”ほんとう” になり
人々は女神の神殿を打っちゃって
プシュケーを崇めに列をなし。

さあ、ウエヌスは面白くありません。
息子のクピドに「厚かましい小娘が
史上最低最悪の相手と結ばれるよう
はからいなさい」と命じました。

一方、プシュケーの両親は、末娘が気がかり。
二人の姉たちはそれなりのお相手と
結婚したというのに、プシュケーだけが
あまりの美しさに若者たちは近づかず
未だ独り身でいるのです。
困り果てた両親は予言の神アポロンに
お伺いを立てました。

その神託は――

  乙女は、強く力ある
  世にも恐ろしい神の
  花嫁となる。
  切り立つ山の頂、
  大岩の上に生贄を残し
  一同は立ち去るべし。

断崖絶壁に末娘をひとり残し
老いた両親の姿が見えなくなると
一陣の風が立ち、何処へともなく
花嫁を運び去っていったのでした。

            🏹 

風は春風、ときめいて
花の香を孕んだ西風の神ゼフィロスは
まどろむ乙女を柔らかな芝草の上に
そっと横たえます。時をおかず
目覚めたプシュケーが目の前に見たのは
瀟洒な宮殿。おそるおそる館に近づくと、
彼女を迎えて扉がひとりでに開きます。

招かれたかのように宮殿のなかへ。
奥へ進むにつれて辺りは輝きを増し
黄金の柱に象牙の天井
梁には繊細な銀細工が施され
床には貴石や宝石のモザイク・タイルが
繊細な文様を描いています。

一つひとつを感嘆して眺めていると
どこからともなく声が。
「ようこそ、ご主人さま。
ここは、あなたさまのお館、
ここに在るものはすべてあなたさまのもの。
私どもは、あなたさまの召使です。
どうぞ、何なりとご命令を!」

声だけの侍女たちの介添えで入浴、
食事のための寝椅子を半円形に囲んだ宴の卓には
これまで味わったこともない山海の珍味
新鮮な果物、そしてネクタール、
神々の飲み物まで。

声の召使たちは食事のあいだじゅう
楽を奏して女主人の食欲を彩ります。
やがて食事を終えた花嫁は
声たちに誘われ、寝室へ。

ほどなく
かすかな気配が漆黒の夜を震わせて、
花嫁のそばに花婿が 。

恐ろしい怪物。

恐ろしい怪物のはずなのに、
生贄として一呑みにされるはずなのに、
なんとやさしい物言い
なんとやさしい愛撫。
「わたしの大切な可愛い妻(ひと)
いとしいプシュケー…」

新郎はけれども姿を現すことなく
払暁、新婦をひとり残して姿を消します。
来る夜も、来る夜も。

すっかり日が落ちて
優雅で繊細な”怪物”が訪れては
「闇のうつつ」――
平安時代の恋人たちのように
褥をともにしたのは確かでも
相手は闇に閉ざされ見えないまま。

そしてまた朝が来て
来る日も来る日も
プシュケーは、日がな一日
声だけの侍女たちに傅かれて
過ごすのです。

黄金の獄舎(ひとや)。
少女のような新妻は
心細く寂しくてなりません。

そんな折
妹が姿を消したあの断崖絶壁へ
姉たちが来て嘆き悲しんでいると
伝え聞いたプシュケーは
彼女たちに会いたい、会って
無事を知らせたいと願うようになりました。

夜毎訪れる夫は
懐妊した妻に思いとどまるよう説得します。
でも、愛しい妻の愛撫につぐ愛撫
耳元で繰り返される甘い囁きに負け
姉たちを、ゼフィロスに頼んで
ここ、”愛の宮殿” に招いてもいいと
許しを与えてしまいます。

            🏹

西風の神に運ばれ
妹のもとへやって来た姉たちは
ただただ呆然、ことばもありません。

金の柱、銀の梁、足元には
おびただしい数の貴石、宝石、
声しか聞こえない召使の一群。
そのうえ客人に供される
贅を尽くした入浴、豪華な料理
どこを見ても何をとっても
人間世界のものとは思えない。

自分たちの境遇に比べて
あまりの違い。あまりといえばあまり!
姉たちの胸に抑えがたい焔(ほむら)
粘りつくような嫉妬の炎が渦巻き
暗く燃え立つのでした。

二人は示し合わせて
妹に囁きます。

ねぇ、プシュケー、私たちはね
可愛いあなたを(大蛇だか何だか知らないけど)
恐ろしい怪物から救ったあげたいの。

そのためには
ね 、いいこと?
よく研いだ剃刀を一丁、それから
油を絶やさないよう灯を用意して
お鍋でも被せて寝室に隠しておきなさい。
今夜 ”怪物”がやってきたら
寝入ったところを見澄まして
獲物をしっかり照らし出し、的を定めて
ひと思いに刃物を振り下ろすのよ。
私たちの可愛い妹、これであなたは自由になれるわ!

その夜、
” 怪物” はいつものように
愛しいプシュケーを訪れて
いつものように枕を交わし
快い疲れに微睡み始めます。
と、やおら起き上がった妻は
隠し持っていた剃刀を取り出し
狙いを定めようと手燭をかざし ——

プシュケーが見たもの、それは
灯の明りをくらませる至高の輝き。
薔薇のかんばせにかかる黄金の捲き毛、
深い安らぎに満ちた寝息の馨しい律動に
純白の翼の和毛が細かに震えています。

寝台の脇を見れば、矢筒。
もう間違いはありません、
女神ウエヌスの愛息子クピドに。
「これが、あの有名な矢なのね……」
何気なく触れた指先に金の鏃が。
かすめただけで十分でした、
新妻が抑えがたい恋におちるためには。

夫クピドのすぐそばで
その美しさを味わい、この手で触れて
愛おしみたい、もっと、もっと……
枕辺に身を寄せたその瞬間、
手燭から油が一滴、
滴り落ちて。

肩に背に衝撃が走り目を覚ました恋の神は
火傷の激しい痛みに飛び去ろうとします。
プシュケーはその片足首を握りしめ、
追いすがります。

しばらくは共に上昇していたものの、
ほどなく若い女性は力尽き、
地面に打ちつけられる寸前に
クピドは急旋回して降下、
妻を抱きかかえて糸杉の畔に下ろすと
「あの義姉たちには相応の罰が与えられる。
あなたへの… あなたへの罰…… それは
わたしが去ること。これが
あなたへの唯一の罰」
あとは無言で
雲間に姿を消したのでした。

            🏹

恋の神なのに
恋の炎熱で大やけどを負って
息子が帰って来たことを知った女神は
どうにも、おさまりません。

神罰を下すよう命じた相手に
こともあろうに恋をして、
おまけに親の許しも得ずに(乞われても、
おいそれと誰が許したりするものですか!)
勝手に娶ったあげく、その嫁に瀕死の傷を負わされて
おめおめ私のもとに戻って来るなんて!

女神は怒りをあらわにして、
不肖の嫁を必ず重く罰すると誓い
見つけ次第、逃亡の女奴隷として
引き渡してほしいと
神々に布令を出します。

その間もプシュケーはクピドを探して
荒れ野をさまよっていました。
ほんのわずかな食べ物を得ようにも、
つかのま体を休める場所を見つけようにも
力ある女神に敢えて逆らう神はいません。
豊穣の女神ケレスも、主神ユピテルの姉にして妻、
婚姻を守護するジュノーでさえも。

疲れ果てたプシュケーは、
心を決めて、ヴェヌスのもとへ。

重い罰を覚悟してやってきた身重の嫁。
待っていたのは、それにしても
酷い仕打ち、罵倒、打擲、罵詈雑言
挙句の果てに、無理難題。

不可能に思えた仕事も
クピドを敬い慕う小さな生きものたちに助けられ
恋の神には少なからず負い目のある
艶福の大神ユピテルの力添えもあって
ヴェヌスの命じたことはすべて
為し遂げることができました。

そんな嫁に、姑・女神は
小さな箱を一つ与えて
申し渡します。

黄泉の女王プロセルピナから
彼女の ”美貌の素” をもらい受け、
この小箱に入れて、持ち帰ること。
(神々の宴に、おめかしして出ないと。
だから急ぐのよ。わかった?)

プシュケーは死者たちの王国へ行き、
プロセルピナから小箱を受け取ると
やっとの思いで地上に還ってきました。
その安堵感からでしょうか、
軽率な考えが頭をよぎります。

この小箱の中身は ”美貌の素”
少しだけ、ほんの少しだけ
付けてはいけないかしら?
もう一度きれいになって、
大切なお方とお会いしたい!

そして、小箱の蓋を開くや、
プシュケーはその場に
くずおれてしまいます。

クピドはといえば、ようやく傷も癒え
母の幽閉から逃れて
空の高みから地上を窺っては
プシュケーを探していました。

そんな若い夫が目にしたのは
南欧のさんざめく陽光のもと、
息絶えて横たわる妻の姿。

つばさ羽ばたかせ
すぐさま地上に降り立ったクピドは
黄金の鏃の先でプシュケーに触れました。

恋の神の口づけ 🌷

よみがえったプシュケーは、
夫とともに不死の神々の列に連なり
やがて月満ちて、女児を出産。
天翔ける恋の思いと人間の<魂 Psyché>から
生まれた娘は、その名も
<豊潤なる歓び Voluputas>。

恋されて恋を知り
その只中で ”死と再生” を生きた魂
プシュケーの可憐な寓話、
「恋の神の恋」。

            🏹

   「恋の神の恋」は
    アプレイウス(Lucius APULEIUS, AD123-?)の小説
   『変身物語(通称:黄金のロバ)』のなかで語られる
   劇中劇ならぬ「物語中物語」。

   表題画像はウィリアム・ブグロー William BOUGUEREAU 作
   「クピドとプシュケー」(1890年)  

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