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アポロンの初恋

アポロンは、太陽の神。
オリュンポスの神々のなかでも際立つ風貌。
充実した肢体、紫に映える黒い髪を
風にそよがせ、竪琴を手に
芸術の女神たちを率いて
パルナッソスの山野をめぐる
その足取りは、華麗な舞踏。

しかも弓矢の技にかけては、
月の女神ディアナ=アルテミス、
狩猟を守護する双子の姉に引けを取らない。
折しも伝説の大蛇ピュトンを退治して意気揚々、
幼いクピド(キューピット)が
弓弦を引きしぼっているのを目にすると
「子どもは自分のおもちゃの松明で
恋の火でも燃やして遊んでいなさい。
おとなの武器で悪戯(おいた)して。
もう、ほんとに危ないんだから……」

危ないのです、ほんとうに。
クピドの矢は二種類あって
金の鏃をつけた矢は恋心を燃やし
鉛の鏃は嫌悪を沸き立たせる。

子ども扱いされた腹いせに
クピドはきらめく翼を羽ばたかせ
高く昇ったパルナッソスの峰から
しっかり狙いを定めて
矢を放ちました。

鈍い音をたてて弓弦を放れた最初の矢、
鉛の鏃が射たのはダフネ、
河の神ぺネイオスの愛娘。
そして次の矢、
黄金の鏃はアポロンに。
デルフォイの神託を司る予言の神も
クピドに不意を突かれれば
なすすべもありません。

アポロンの初恋。
いくら薬草の知識に長け
医術の守護神であっても
癒すことはできません ――
金の鏃の傷も、鉛の鏃の傷も。

美しい男神は
乙女を追います。
森を抜け野を駆け
豊かな髪を風になびかせ
必死に彼から逃れようとするダフネ。

美しいニンフよ、
あなたを慕い、あなたの後を追っているのは
羊の番に明け暮れる人間の男でもなければ
山野に棲む山羊足のフォーンでもない。
私はアポロン、大神ユピテルの息子。
あなたに私の思いを伝えたいばかりに
あなたのあとを追っている。

だから、そんなに走らないで。
もし転んで怪我でもしたら…
イバラや灌木の細枝で
その白い腕を傷つけでもしたら…
お願いだから、そんなに走らないで。
私も、ゆっくりあとを追うから……。

アポロンであろうと
だれであろうと
いやなものは、嫌。
完璧ささえ、疎ましい。

ダフネはこれまでも
父神がすすめる結婚話には見向きもせず
颯爽と野山をめぐってばかり
(処女神ディアナとどこか似て)

そのうち
追うものと追われるものの距離は縮まり
アポロンが手を伸ばせば
足早のニンフに届くまでに。

ダフネは、父である河の神に
助けを求めます。

今まさにアポロンの手が触れようとしたとき
ダフネの姿は変わり始めました。
草の露に湿った足先は大地に沈み
張り拡がって根となって
乙女の肌はだんだんと樹皮におおわれ
高く差し伸べた腕は枝に。
華奢な小枝の指先には、
緑の葉群れ。

アポロンの目の前には
一本のゲッケイジュ。

姿を変えた初恋の相手を
男神はかき抱き、口づけして
その瑞々しい翡翠の枝に誓います。

月桂樹よ、
結ばれることの叶わなかった愛しいもの。
おまえは、けれど末永く私の誉れ。
私の名のもとに技芸(わざ)を競い勝利した者に
おまえの姿を留めた冠が授けられよう、
私のダフネ、清かに香る月桂樹よ。

            🍃

”ねこじゃら荘”の南西の隅にも
一本のゲッケイジュ。
すっくと立った丈高い木の
広がる枝には緑の諧調。
冬を越した深い緑、
伸び盛りの浅緑。

そよ風を招く清爽の香は
処女神アルテミス=ディアナの
エウリピデス(*)が歌った「かぐわしい息吹」
                 (*)『ヒッポリュトス』v.1391

でもニャ~
ゲッケイジュにいてもらいたいのは
アポロンの初恋のせいばかりではニャイのです。

ゲッケイジュの葉は、
お料理猫たちにとっては
あのローリエ!
年中、煮込み料理には欠かせニャイ。
夏はラタトゥイユ(トマトと好相性)
冬はポトフ(冬野菜たちと大の仲良し)
ピクルス作りにも。

梅雨の恵みに潤って
夏の太陽を全身に浴びて
(アポロンの熱い抱擁♡)
やがて秋、冬が近づくころ
葉群れの緑は深まって、収穫の時。
数十センチに切りそろえた枝は
何本かずつ束にして梁に吊るして
月桂冠ならぬローリエの帷(とばり)。

ダフネ Daphné。
フランス猫たちは
ジンチョウゲをこう呼ぶけれど
古代ギリシャ・ローマの詩人たちは
初夏の宵に蠱惑の香を漂わせる沈丁花ではなく
凛と匂うゲッケイジュに
自分らしく生きたニンフを
重ね見たのでしょうか。

惑星の自転にちょっと逆らって
ユーラシアの西から東へ。
古代中国の猫たちも
月に植わった不思議の桂を
思い描いていたそうです。
枝を伐っても、またすぐ伸びて
繁る葉、葉、葉擦れにそよぐ香。
伝説の月桂樹のかたわらには
美しい若者が立っていたとか。
(もしや、アポロン?)

            🌿

アポロンの初恋。
まだ世界が始まって間もないころのお話は
オヴィディウス(BC 43~AD17/18 )も
『変身物語 Metamorphoses 』第一巻で
すてきな詩にして伝えてくれています。

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