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遅桜、花の舞う頃

花の盛りの短さをうらみ
生死をつかさどる道教の神
泰山府君(たいざんぷくん)に
天女は舞を捧げて花の延命を乞うた。
かくて七日で散るはずの
桜花のいのちは三七日に。
世阿弥作「泰山府君」。

行く春になおも花を求めて
謡曲「熊野(ゆや)」
咲き誇る花の舞。

平氏全盛の世、
清盛の嫡男、宗盛は
彼に仕える美女、熊野を伴い
花を見に出た。

四条五条
春をまとった都人の行き交う大路を
ゆるやかな鴨の流れに沿って
尊い社寺を心に拝し牛車はやがて清水へ。

車を降りた熊野は扇をかざし、
脇正面から階(きざはし)正面へ
弧を描き舞っては
花の霞を呼吸する。
舞台と客席は一体となって
見所(けんしょ)に集う観客は
春たけなわの景色と化す。
(なかにはお澄まし顔の子猫までいて……)

舞台と客席を一体化する演出は
ミュージカルでは常套、コンサートでも
メンデルスゾーン『真夏の夜の夢』
結婚式の場面では、客席にまで照明が当たり
観客は招待客に早変わり。

『真夏の夜』を聴く宵は、子猫だって
おしゃれして、色とりどりのガラス玉に
真鍮が光るネックレスを
ジャラジャラつけてみたりする。
閑話休題。

今をときめく権力者、
佳人と花と
花に花を重ねての宴
そんな絢爛豪華にも影がさす。

宗盛に随って出かけようとした熊野は
里のたよりを受け取った。
病の床に臥す母は明日をも知れぬいのちという。
暇を乞い、すぐにも東国へ立とうとしたが
宗盛は許さない。

華やぎの只中にあって
心は重く沈んだまま
耽溺の春に披露する
ひとさしの舞。

そのとき花曇る空から降り来る村雨は
一座の皆をふと現実に引き戻す。
熊野は遠国の老母を思い
短冊を取り出し、認めた。

   いかにせん 都の春も惜しけれど
     馴れし東(あずま)の花や散るらん

歌に心動かされた宗盛は宿下がりを許し、
熊野は東へと下って行った。

     *     *     *

六百年の時が過ぎ
熊野はユヤとなって
現代劇の舞台に立つ。
三島由紀夫『近代能楽集』に所収の
一幕戯曲「熊野」。

冒頭、設えられるのは
「ユヤの住む豪勢なアパートの一室。」
宗盛は、富と権力を掌中にする壮年の実業家
うら若い女性ユヤの何不自由ない暮らしは
ひとえに彼の庇護による。

そんなユヤのもとに
母の病重く帰省せよとの手紙が届く。
女主人公と近しい女性を介して手紙が届けられるのも
届いた手紙が声高に読み上げられるのも、謡曲のまま。
宗盛がユヤの帰省を許さず
ともに花見に出かけるよう強いるのも、謡曲のまま。

「熊野」のシテが見所に都の春を見たように
三島のユヤも客席に臨んで

   「ここからだってお花見は出来るわ。
   ト正面舞台端の硝子戸を左右にあけ放つ仕草をなし、
   一、二歩進んで露台へ出たる心持。この一場のために特に
   露台の手摺を出してもよい)

並んで立ったユヤと宗盛の眼前には
都の春を華麗に彩った花とはほど遠く
町なかの公園の桜、数本。

二人が交わす短い台詞のやりとりは、しかし
スティコミティア(stichomythia 隔行対話)にどこか似て、
西洋古典劇をそこはかとなく思わせる。

   ユヤ それにあの桜をごらんなさい。枝という枝が花でいっぱいで、           
     何てきれいなこと。
   宗盛 君のいうのは、あのちっぽけなしなびた二三本の桜のことか。
     あの色褪せた綿屑みたいな。

見上げた空に黒雲が湧き、雨。
濡れそぼつ桜を見つめていたユヤは泣き出し
宗盛は帰省を許す。

二人が室内に戻り
「バルコニィの手摺」が片付けられると、
謡曲「熊野」の記憶は退き
喜劇的な”間奏曲”が鳴り響く。

宗盛の卑屈な秘書に伴なわれて登場するのは、
北海道で病の床にあるはずのユヤの母(養母)
「五十恰好の小肥りした元気そうな和服の女」。

母の出現で、恋人と会うために
娘が弄した小細工は水泡に帰し、
「事件の真相というやつ」が明らかになる。
義母の生計を維持するため、そして(恋人も承知の上で!)
「結婚資金を稼ぐ」ため、また自身の生活の手段として
ユヤは宗盛の援助を受けていた。
美しい肢体と容貌と、その「やさしい言葉」――
詩的饒舌を対価として。

事ここにいたっては
立ち去るしかないユヤを
宗盛は呼び止める。

いかにも頼りなげな彼女を
見捨てるには忍びなかったから?
それとも彼女の不在に、自身
耐えられそうにもなかったから?
いずれにせよユヤは救われた。
人の数だけある”愛”のかたち、
おそらく当人たちにも
本当の姿はわからない……。

降り続く雨に
舞台は暗さを増し
ユヤは宗盛のそばで
花見の機会を逸したと
無邪気に残念がってみせる。

   宗盛(自分の首の捲かれたユヤの腕を軽く解きほぐし、
     その手を握ったまま、女の顔をやや遠くから見つめて)
     いや、俺は素晴らしい花見をしたよ。……俺は実にいい
     花見をした。                ー幕ー

            ⁂

宗盛の見た「花」
それは刻々と移り変わる
美しい女(ひと)の表情であったかもしれない。
嘘が暴かれたときの困惑と怒り、明日への不安
その暗澹たる思いから一転、こみあげてくる喜び
ついには安堵。

同時に「花」は
官能の秘境を知り尽くしたかの隣室女性が示唆するような
嗜虐的な快楽であったかも知れない。

   泣いているこの人の美しさ、男の目からどんなでしょうね。
   雨のなかの桜みたいだって、あなたが思っているのがよくわかるわ。
   その葉巻の煙のなかから楽しそうに眺めているあなたの目が、
   ユヤを小さな美しい悲しみの人形に変えてしまったんですわ。

とはいえ
終章の夕闇に閉ざされて
ユヤの姿かたちは、すでに朧(おぼろ)。
ユヤは、もはやそこにはいない

楽しみ、悲しみ。
実存の情動から生み出される対立項を
包摂せんとする意志がある。
日々の研鑽を足掛かりに
登攀の果てに目にするもの、
それはボードレールが歌った
「理解されないスフィンクスのように蒼穹に屹立する」
<美>ではなかろうか。

宗盛が見た「花」は、<美>
あるいは、そのかすかな予感。

「悲しい心とさかりの花と、お花見のたのしみと
この悲しみは決して一緒にならない」とユヤがいったとき
宗盛は応じた。「それを俺が一緒にする」と。

   相容れないものがひとつになり、反対のものがお互いを照らす。 
   それがつまり美というものだ。陽気な女の花見より、
   悲しんでいる女の花見のほうが美しい。そうじゃないか、ユヤ。
   君はまったく美しい。美しいから二つのものを、本来相容れない
   二つのものを、一つにしてしまう力を持っているんだ。

『悪の華』の詩人が捧げた
「美への頌歌 Hymne à la Beauté」が
遠く近く谺する。

   空の深みから、それとも深い淵から訪れ来たのか
   おお美しいものよ? 地獄のように神々しいお前の眼差しは
   綯い交ぜに注がれる、善きものと犯罪とに。
                 ボードレール『悪の華』

            ⁂

美しい女性と雨に打たれる花。
その幻影は時空を超えて
美の系譜を紡ぐ。

春闌けて
桜花に代わる葉桜が
日ごと緑の濃さを増すころ
梨の梢には白い花

雨を含んだ優しい花に
中唐の詩人は
しとど涙にくれて
玄宗帝に変わらぬ愛を誓う
美しい妃の面影を見た。

   玉容寂寞 涙 闌干(らんかん)
   梨花一枝 春 帯雨
                      白居易「長恨歌」

そして
ある夏の初め
みちのくを旅した芭蕉は
雨にうなだれる薄紅の花を
いにしえの佳人に譬えた。
その顰(ひそみ)さえ人々を魅了した
六朝(りくちょう)の美女、西施。

   象潟や雨に西施がねぶの花
                    松尾芭蕉『奥の細道』

咲き誇り
盛りの春に舞った花は
雨に浮かぶ花筏となって
悠久の美の大河を
下っていった。
梨の花、合歓の花
薄紅に白、また薄紅が
水底をいく。

三島由紀夫、
彼もまた
この流れに掬する者。
天馬のように時代を駆け
逝って半世紀、
時分の花を越えて
彼もまた
不易流行の人、
<美>の寵児。   

   

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