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ミノス王家の女性たち(Ⅲ)

四千年以上昔、エーゲ海の南、
クレタの島に興ったミノワ文明。
伝説の王ミノスの家の女性たち、
妃パシファエ(*)とふたりの娘、
姉アリアドネ(**)とその妹、
パイドラーは、ミノス王家の末つ姫。
                                                             (*)「ミノス王家の女性たち(Ⅰ)」
                                                              (**)「ミノス王家の女性たち(Ⅱ)」

アリアドネは
若き英雄テセウスの許嫁として
彼とともにアテナイを目指したが
途中の小島に遺棄され、
ギリシャに到ることはなかった。

いくばくか後
パイドラーが
アッティカの土を踏む。
テセウスの妃となって。

馬たちの国、アッティカ。
狩りの野を、戦の場を
駿馬が走る。

そのアッティカのさらに北、
黒海のあたりに、騎馬で戦う
女性たちだけの部族があった。
槍を投げ弓を引く妨げになる
右の乳房を切り落とし
ア(無)マゾン(乳房)と呼ばれる。

恋を拒否し、子を得るためだけに異性を求め
生れた子は女児のみを育て、男児は
必要以外は排除して憚らない。
極彩色の衣服をまとった華麗な女戦士たち。
「熱い口づけ /  歯の一撃」
               (クライストの戯曲『パンテジレア』)

ギリシャの英雄は時に彼女らと戦う。
テセウスも、アマゾンの女王を捕虜とし
彼女との間に一子を儲けた。ヒッポリュトス。
その名に「馬(ヒッポ)」を冠した少年は
長じて、生母に似た美青年となった。

弓矢と槍とを携え、手綱さばきも鮮やかに
愛馬を御し、野山や森へ。
恋の女神アフロディテは敬して遠ざけ、
もっぱら狩りの女神アルテミスを慕い、
乙女神もまた若者を寵愛してやまない。

このヒッポリュトスに
パイドラーは
恋をした。

       *     *     *


エウリピデス(前480頃~前406)の
悲劇『ヒッポリュトス』(前428年奉納)は
女神で始まり、女神で終わる。
                        以下、作品の引用は
                川島重成訳「ヒッポリュトス」による。         

始まりの<プロロゴス>
登場するのは、恋の女神アフロディテ。
神威に服すどころか、自分を卑しみ
処女神アルテミスとつねに行動をともにする
身の程知らずの若者を罰するため、
女神はパイドラーを用いることに決めた。

アフロディテの準備は周到。
ヒッポリュトスを初めて見たパイドラーに
ただちに黄金の翼のエロスを遣わし、
若い義母を恋情の袋小路に追いやった。

パイドラーは煩悶する。
秘さねばならない恋であるほど
逃れられない恋であるほど。

食を拒んで憔悴しきった王妃は
養い子を気遣う乳母をまえに
ため息のように繰り出す
夢想の織り糸。
よじれ、絡まり、春の野を渡る
西風(ゼフィロス)に
そよぎ、乱れて。

     パイドラー
   ああ、澄んだ泉の
   清水を汲んでのどを潤し
   ポプラが影をおとす草花の繁った野で
   横になって休みたい。
        乳母
   何をおっしゃいます、姫様。
   人が大勢居りますのに、いけません、
   そんな気がふれたようなことを口になさっては。
        パイドラー
   さあ、おまえたち、山に連れていっておくれ。
   猟犬が駆けまわって
   斑(まだら)の鹿に襲いかかる
   松の林に私は行きます。
   どうかお願い。やってみたいの、犬をけしかけ、
   鋭い切先のついた
   テッサリア―の投槍を手にとって
   この金髪のそばから投げてみたいの。

槍を投げる、 アマゾンの女王のように?
それとも、女神アルテミス――
ニンフたちに囲まれて水浴する姿を
たまたま垣間見た青年アクタイオンを
斑の鹿に変え、猟犬たちをけしかけた
潔癖無比の、あの乙女神のように?

母、姫神。
若者の愛する相手に自らをなぞらえるうち、
いつしか思いは恋しい人のかたわらへ。

   海に沿うリムネーと蹄響く馬場の
   主なるアルテミス様、
   あなた様のその聖域で、エネトイ(*)の駿馬を
   思うまま駆ることができましたら。
                      (*)エネトイは名馬の産地

つかのま
岬を行く潮風に
この身をまかせて。

       *     *     *


養い子の”病い”の原因を察知した乳母は
若い妃の思いを相手に伝えようとして、失敗。
青年の激烈な拒絶に遭う。
「けがらわしい」。

パイドラーは恋焦がれる相手の
嫌悪に満ちた怒声を扉越しに聞いて
すべてが終わったと悟り
決意する。

後に遺す
血を分けた子らが立ち行くよう、
実家クレタの王家の誇りと
自身の名誉を守るため
ヒッポリュトスを讒訴する ――
それは、王家の姫として
アテナイ王の妃として
幼い子らの母として、
当然のあるべき姿。

けれど
義理の息子の”不義”を
書き板に記しながら
恋する女(ひと)の内に息づく
魂のあるがまま
叫んでいたかもしれない。
≪いま文字に表していることこそ
≪わたしが真に欲していたこと。
≪そして、ヒッポリュトスよ、
≪あなたはご存じでしたか、
≪拒まれた愛の最後の叫びは
≪我とわが身を引き裂く
≪憎しみだということを?

  …… わたしは死んで、もうひとりの人にも
  禍となってやります。わたしのこの不幸を見て勝ち誇ってばかりは
  いられないことを思い知らせてやるのです。その人はわたしの苦しみを
  自分でも味わって、分別を学ばされることでしょう。

苦しみによってしか結ばれない
「わたし」と「もうひとりの人」。
ミノス王家の末つ姫は
自ら溢死して果てた。

コロスは歌う、
パイドラーの悲劇を、
彼女が齎すことになった
もう一つの悲劇を予感させながら。

  おお、白い翼のクレーテーの船よ、
  潮(しお)鳴り響く
  波間を縫って、おまえは、
  お妃を仕合わせの家よりお連れした。
  その結婚の歓びはなんという禍を孕んでいたことか……

       *     *     *

折しも
神託伺いの長旅からテセウスが帰還。
妃の亡骸と遺された書き板を見るや、
怒りにまかせて息子の破滅を
海神ポセイドンに願い、
さらには若者を追放に処す。

老王の呪いは成就した。
都を追われ、海沿いの道を
馬車で行くヒッポリュトスの前に
逆巻く波から牡牛の怪が躍り出る。
驚く馬たちを制御しきれず
若者は、手綱を握ったまま
転覆し毀れた車の残骸とともに
岩場を引きずられ、灌木に引き裂かれ
無残な姿となって、父の館に運び込まれた。

悲劇の終わり<エクソドス>。
突然、舞台に姿を現した女神アルテミスは
瀕死のヒッポリュトスを「不愍な者」と呼び、
老テセウスに告げる。
自分がここに来たのは若者の
「正しい心を明らかにし、
名誉の下に最期を遂げさせるため」
そしてまた

   お前の妻の激しい恋、見方によっては、
   気高い心とも言えようものを示すためである。

パイドラーの「気高い心」。
アルテミスの<エクソドス>と対をなす
<プロロゴス>でも、アフロディテは告げていた。
パイドラーは逝かねばならぬ、
「名誉ある者」としてではあるが、と。

ミノス王家の末つ姫。
その気高い心、彼女の名誉――
それは一途に人を恋う心、
人間(じんかん)に在る限り
課せられる義務を全うせんと
もがきながらも。

彼女が愛したヒッポリュトスは
娶らぬままに半神の如く祀られ
嫁ぐ日を前にした娘たちは
女神たちゆかりの美青年に
新生活の無事を祈ったという。

   乙女たちがおまえを偲んで口ずさむ歌は
   いつまでも歌い継がれ、おまえを慕ったパイドラーの恋も
   知る人もなく沈黙の淵に忘れ去られることは決してないであろう。

女神アルテミスは
こう言い置いて去っていく、
清爽の香を舞台に残して。

       *     *     *

太陽と海の交わるところ
クレタが永遠であるように、
ミノス王家の末つ姫も
永く詩人たちの心に留まり
それぞれの時代を映しつつ
彼女の悲劇を深化させていく。

紀元一世紀、
ネロ帝のローマを生きたセネカから
十七世紀フランス、太陽王ルイ十四世治下
宮廷悲劇『フェードル Phèdre』を遺した
ジャン・ラシーヌにいたるまで。

その礎はたしかに据えられた
エウリピデス作『パイドラー』。

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