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雛の里

幼い桃ちゃんにとって、旧暦三月三日
桃の節句は特別な日でした。
自分と同じ名前のお花を飾り
お母さんお手製の”ばら(ちらし)寿司”や
お祖母ちゃんから届いた”雛のお重”を
お雛さんに供えて
みんなでお相伴するのです。

衣冠束帯に威儀を正した男雛さん
十二ひとえの女雛さんは
障子越しに射す春の光をまとって
雛の御殿にお住まいでした。

その御殿を設えるのはお父さん。
大人の男の人の手が
掌に収まってしまいそうなお御簾を上げて
お内裏さんを御座所へ。
お母さんと桃ちゃんは
三人官女や ” お市さん(市松人形)”
セルロイドのキューピィさんを
赤い毛氈に並べます。

夜になって電灯を消し
ぼんぼりにロウソクを灯すと、
ゆらゆら揺れる光と影に、お雛さんたちも
久しぶりの春の宵を楽しんでおいでの様子。

   ぼんぼりに灯を入るるとて、
   電燈 殊更 消すもよし。
   瓔珞ゆれて、きらめきて、
     物語めく 雛の宵。

   十二一重の姫君の
   冠少しく曲がれるを、
   直すとのべし 手の触れて、
     桃の花散る 雛の宵。

   官女 三人(みたり)のまねすとて、   
   妹 まじめの振舞に、
   加わりたまふ 母上の
     ゑまひ うれしき 雛の宵。

                「雛祭の宵」
                『新訂 高等小学唱歌 第一学年用』
                       (昭和10年、文部省)

美しく、それでいて儚げなこんな詞を
古謡を思わせる短調の旋律にのせて
子どもたちが歌っていたころ、
大人たちは、戦争を始めていました。
だんだん戦いが激しくなって、お父さんは戦地へ、
桃ちゃんはお母さんと、お母さんのおなかにいた
妹のユキちゃんといっしょに親戚のいる
山あいの村で過ごすことになりました。

戦いの終わる年の春、新暦の雛の祭りが過ぎたころ、
桃ちゃんが生まれた町にたくさん飛行機が飛んできて
たくさんの爆弾が落とされました。
建物という建物は焼け崩れて、
遊園地や百貨店に行くとき電車に乗った駅から
一つ向こうの駅までまっすぐに見通せるほど。
お家の近くにあった砲兵工廠(造兵廠=陸軍の武器工場)も
鉄の骨組みを残すだけになりました。

戦争が終わった秋、お父さんが
南の島で亡くなったと知らせが届きました。

もうお父さんに会えないんだ――桃ちゃんは泣きました。
ユキちゃんはお姉ちゃんが泣いているのが悲しくて
自分もしくしく泣きました。
お母さんは二人を抱きしめて
――大丈夫、きっとお父さんとまた会える。
ユキちゃんは小さな手を伸ばして
お母さんの涙を拭ってあげました。

世の中が少しずつ落ち着いてきて
お母さんと桃ちゃんとユキちゃんは
お父さんと暮らしていた町へ戻ってきました。
洋裁の得意なお母さんは知り合いの洋装店でお仕事、
桃ちゃんは学校から帰ると、お掃除をして食事を作って
お母さんの帰りをユキちゃんと待ちました。

            🌸

その春の夕べも、
桃ちゃんは晩ごはんの支度をしていました。
台所の窓から見ると外はもう薄暗く、
すぐ近くにいたはずの妹の姿が見えません。
桃ちゃんはあわてて下駄をつっかけて外へ出ました。

戦争の前は、田や畑が多く空き地もたくさんあったのですが
あっという間に家がいっぱい建って、家と家との間は
くねくねと曲がった路地や袋小路で迷路のよう。
ユキちゃんは、紙芝居のおじさんについて行ったのかしら。

紙芝居のおじさんは、
自転車に額縁のような木の枠と
お菓子の箱を積んで界隈を回ります。
公園の片隅や辻に自転車を止めて、
よく響く拍子木を打ち鳴らすと
町内の子どもたちが集まって来るのです。

おじさんは木箱の中の引き出しから
吹くと笛のように音のする砂糖菓子や
型抜き遊びのべっこう飴を取り出したり、
水飴を割りばしに絡めたり、
二枚のお煎餅で味噌餡を挟んだり、
魔法使いのようにいろいろなお菓子を繰り出しては
子どもたちに配ります。
――順番だよ、小さい子から。
 みんないい子だね、小さい子が先だよ!
小さい子にも大きい子にも、
それぞれのお好みが行き渡ると
いよいよお芝居の始まりです。

怪盗を追い詰める名探偵の活躍に夢中になる子、
青や紫のお化けは怖いけれど、やっぱり見たい子、
みんな次の場面が待ち遠しくて
舞台がわりの木の枠から分厚い紙を
一枚また一枚、ときには素早く
ときにはゆっくり抜き取る
おじさんの手を見つめます。

桃ちゃんがいつもの辻まで来ると
ちょうど紙芝居が終わったばかりで、
おじさんは自転車の荷台に木枠を片付け
出発しようとしているところでした。
――あのう、すみません、妹を探しているんですけど……。
ユキちゃんの特徴を聞くと、
――その子なら、ほら、そこの角を曲がって行ったよ。
桃ちゃんはお礼を言って
教えられた方へ駆けて行きました。
角を曲がり運河に沿っていくとお家に帰る近道です。
ユキちゃんは遅くなったので
近道をして帰るつもりなのでしょう。

桃ちゃんは急いで角を曲がりました。
ところが、どうしたことでしょう、角を曲がったとたん
見慣れた運河はなく、ただ灰色の道が続いてるばかり、
そして正面には、ここからは見えるはずのない
砲兵工廠の錆びて赤茶けた骨組みが
影絵のように浮かび上がっています。
戦争が終わって十年あまりも経つというのに
残骸は放置されたままでした。

――ユキちゃ~ん!
引き返そうと思えば、できました。
でも、紙芝居のおじさんの教えてくれたように、
ユキちゃんがこの道を行ったのなら
追いかけなくては。
桃ちゃんは深呼吸をすると
妹の名を呼びながら
工廠の廃墟に向かって
足早に歩き始めました。

進むにつれて辺りは少しずつ明るくなって、
黄昏の薄明りは午後の光に変わっていきます。
廃墟の影が薄まったわけでも
なくなったわけでもありません。
にもかかわらず、いのちの春は
桃ちゃんを包んでいました。

足元には、ハコベやスミレ、オオイヌノフグリ
シロツメクサにホトケノザ、
見上げれば、薄色の空におぼろに広がる
桃花鳥(とき)色の花。
桃ちゃんは今のユキちゃんよりずっと小さかったころ
お父さんの肩車で(桃ちゃんは”カタクマ”と呼んでいました)
こんなピンクの雲の中をどこまでも
行ったことがありました、
どこまでも、どこまでも。

いつのまにか桃ちゃんは
御殿のような立派な建物の前に立っていました。
門は開かれています。
だれかが呼んでいます。
桃ちゃんはためらうことなく
中へ入っていきました。

            🌸

門から御車寄せへ。
ここをよく知っているような
ずっと昔、何度か来たことのあるような……
ただ一つ、確かだと思えたことは
――ユキちゃんも、ここに来ている。

階(きざはし)の上に人の気配がして、
蘇芳の袴に小袿姿の年配の女性がいます。
その人は桃ちゃんを御殿に招き入れると、
庭に沿って続く長い廊下をわたり、
奥へと案内してくれました。

しばらくすると、同じ人が
若い女性を二人従えて戻ってきました。
(「私、この人たちを知ってる……?」)
紅の袴に薄紅と萌黄の襲も春めく若い二人は
赤い房のついた紐を引いて御座所の御簾を上げました。
桃ちゃんは緊張してお辞儀をして――
頭を上げたとたん、思わず小さく叫ぶと同時に
ほほえんでいました。親王とお后は、
桃ちゃんのお内裏さんだったのです。

お祖母ちゃんに挨拶の言葉をたくさん教わっていたのに、
いざとなると頭の中は真っ白―― ええーと、ええーと
いいわ、思ったままで
――こんにちは、もうお会いできないと……なのに
 またお会いできて…とってもうれしい!

お内裏さんも、互いにお顔を見合わせ
満足げにほほえんでおいでです。
そこへユキちゃんが案内されて入ってきました。
ユキちゃんは、いっぱいお花の咲いたお庭にいたと、
あとで桃ちゃんに話してくれました。

そのうち年配の女性が三方にのせた杯を、
続いて若い二人が、一人はお酒の入った提子(ひさげ)を
もう一人はお酒を注ぐ長柄(ながえ)を手にしています。
もう間違いありません、三人は
桃ちゃんの三人官女でした。

官女たちは白酒や”雛のお重”を
女の子たちに勧めます。

三段のお重は雛のお道具、
各段に親指の先ほどの主菓子が九つずつ
一番下は、萌える草色、鶯餅、
二段目は色白に紅のえくぼの上用饅頭
そして一番上は、桃の実をかたどった練り切り。

桃の実は、西王母の果実。
食する人は三千年の齢と
変わらぬ若さと美しさを保つ
恋を知り初めた女(ひと)の水菓子。

お雛さんと双六をしたり投扇興で遊んだり、
どれぐらい時間が経ったでしょう。
三人官女がぼんぼりに明かりを灯します。
その柔らかな陰翳に、女雛の冠の瓔珞が
雛祭の宵のように、ゆれて、きらめいて……。

もうお家に帰らなくては。
――こんなに長くお邪魔してしまって。
 母が心配しますので、そろそろ失礼いたします。
 きょうは、あの、ありがとうございました。
桃ちゃんがご挨拶すると、ユキちゃんも
ちょこんとお辞儀をしました。

御殿の門を出ると桃ちゃんは
桃花桜花の匂う靄の中を
ユキちゃんの手をしっかり握って
お家へと急ぎました。

            🌸

ほんの少し歩いたかと思うと、
二人はもう紙芝居のおじさんの
いつもの辻に着いていました。

桃ちゃんが振り返ると、
無数の小さなぼんぼりの灯が
少女たちのあこがれのように
淡くやさしい光を放っています。
それとも、それは輝き始めた
春の星座たちだったのでしょうか。

ユキちゃんを探しにお家を出てから、
ほとんど時間は経っていなかったのです。

その夜、桃ちゃんはお母さんに
お雛さんたちと会ったことを話しました。
ユキちゃんも、お姉ちゃんの話にうなずいては
にこにこしています。

桃ちゃんが話し終えると、お母さんは
遠い思い出を手繰るように
――じゃあ…… 二人は雛の里へ行ったのね。

そして、若く弾んだ声で
――ずっと昔ね……お母さんも
 行ったことがあるの、 雛の里に。
 雛の里に行った子は、すてきな相手(ひと)に
 めぐりあうのよ。

じっとお母さんを見ていたユキちゃんは、
桃ちゃんのそばに躙(にじ)り寄ると
耳元でささやきました。
―― お母さん、き・れ・い。

            🌸

それから数年経ったある春の宵、
黒髪の楚々とした娘さんに成長した桃ちゃんは、
あの雛の里の親王さんと面差しのどこか似た
爽やかな青年と出会いました。

きっとお母さんが、昔
お父さんと出会ったように。

   桃の木は若く、その花は盛り
   そんな娘がお嫁に行けば、
   かならずなるよ、しあわせに。

   桃の木は若く、その実はふくよか。
   そんな娘がお嫁に行けば、
   かならずなるよ、しあわせに

               「桃夭」(『詩経』)による                                         

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