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梅 実るころ

雨の季節が近づくと
ねこじゃら荘のウメの木も
ちらほら青い実をつける。

二十年近く前のある秋の日
庭師さんに連れられて
やってきた枝垂れ白梅。
ほんの若木だったのに
年が明けてひと月も立たぬうち
いくつか白い花をつけた。
小さいお花、清香はそれでも
春の先ぶれ。

若木に若い葉が芽吹き
柔らかな緑が濃さを増すころ
枝には…… これって実? 一つ、二つ
小指の先ほどに膨らんだ小さな粒が十数個
雛の道具の竹かごに入れると、心細そうに
隅っこで身を寄せ合っている。

初めてなったウメの実 ―—
そうだ、梅酒を作ろう!

            🐌🍃

ずっと梅酒に憧れていた
「智恵子の梅酒」。

中学生になったチビ猫に
知り合いのお兄さん猫が
『智恵子抄』を贈ってくれた。
艶やかな紅赤の絹で装幀された
今にして思えば四六版の美しい書物
(出版は求龍堂、だったかニャー)。

手にしたとたん、チビ猫は
ニャンだか急にオトナ猫。

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒(うめしゅ)は
十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、
いま琥珀(こはく)の杯に凝つて玉のやうだ。

高村光太郎『智恵子抄』「梅酒」冒頭

            🐌🍃

ウメの小粒を洗い、サッと水気を拭って
蜂蜜の ”ほとんど空き瓶” にパラパラっと落とし入れた。
瓶の底には薄っすらと蜂蜜が残っていたけど、
気にしニャイ、気にしニャイ(ニャハハ)

それから氷砂糖をテキトーに入れて……
ええーと、あとはニャンだっけ?
そうだ、梅っていうからには
お酒がいるのね!

ねこじゃら荘のお酒といえば
葡萄酒のほかは、お料理用の日本酒に味醂
お菓子に使う果実酒のたぐいに
えーと、戸棚ゴソゴソ、ラム酒に
ブランデー?

ブランデー!
いつだったかワル猫仲間が
ブランデーで梅酒を作った、ニャーンて
言っていたことがあったっけ。

ウメの粒々と不ぞろい氷砂糖の入った瓶に
コクンコクンとブランデーを注いだ。
いま作ったばかりなのに
子猫の梅酒は、もう琥珀色。

ヤッター、ニャア! 猫、大満足。
瓶をありあわせの紙でくるっとくるんで
宝物のように戸棚の奥にしまい込んだ。

            🐌🍃

以来、青ウメの季節を
何回 迎えたことだろう。
十数回、いいえ、もっとたくさん ……。
ずっと昔、たった一度
梅酒を作ったことなどすっかり忘れて。

ある年の春、ようやく首輪が外れて
半ノラ猫に戻り、一日中ねこじゃら荘で
丸まっていられるようになった。

その年、夏をまえに食器棚の大掃除を
思い立ったのはよかったけれど
ニャ―、出てくるは出てくるは、
買い込んだ調味料に香辛料
いつか使うかも、と溜め込んだ大小の空き瓶、
奥のほうまでゴソゴソ前足を伸ばしていると
何やら紙に包まれたものがプニプニに触る。
おそるおそる引っ張り出して周りの紙をとると
見覚えのあるような、ニャイような瓶。
中には、ニャニ、これ?
この黒い液体は……

『マクベス』冒頭の三人の妖婆が
猫たちの留守中に作り置いて、あとは
f f fと、どこかへ消えた?

Fair is foul, and foul is fair        正しいは間違い、間違いは正しい   
Hover throuth the fog and filthy air   ふらふらと漂って行こう、霧と
                     どんより澱んだ空気の中を。   
    

『マクベス The Tragedy of Macbeth 』
Act1  Scene 1、RSC ed.

瓶の底には、何やら黒いもの
「まっくろくろすけ」にしては、シワシワ。
ルドン Odilon Redon (1840-1916)の
”笑うクモ” にどこか似ているニャア。

『微笑むクモ L'araignée souriante 』
紙に木炭、1881年 Musée d'Orsay

「黒の時代」と呼ばれる一時期
ルドンは、よく木炭でを描いていた。
顕微鏡で覗いたシャーレにうごめく微生物のように
眼球は眼窩を抜け出し紙面を浮遊しては
ときには見る者を悲しげに見つめ
ときには上目遣いに天を仰いでいたりする。

「正しい」と「間違い」の輪舞に翻弄され
「どんより澱んだ空気の中を」ふらふらと
さまよう猫たちとどこか似て。

けれどは、ある時
見ることをやめる。
『目を閉じて Les Yeux clos 』

同じ表題で何枚もの油彩が
紙やキャンバスに描かれた。

『目を閉じて Les Yeux clos 』
紙に油彩、1890年 Musée d'Orsay

目を閉じて
<見えないもの>を見、
ヒトの耳には聞こえない
<宇宙の音楽 musica mundana> を
聴いているかのように。

画家は
木炭をパステルに持ち替えた。
最深の闇が光を発するように
黒はあらゆる色を生む。
一輪一輪が柔らかな光と化した
ルドン晩年の野の花たち ―—

『縦長の花瓶に生けられたの野の花  Bouquet de fleurs des champs dans un vase à long col 』
淡黄色の紙にパステル、1912年 Musée d'Orsay

            🐌🍃

「黒の時代」を漂っていた眼は
ギリシア神話が語る一つ目の巨人
キュクロプスの胸像に居処を得た。
(『キュクロプス』板に油彩 1914年ごろ)

画家のパレットと化した板面に
精力的な絵筆が油絵具の粘性を跳躍させる。
岩肌の系色を基調に
苔や山野の草花の
その合間には
雲と太陽を覆って空中に漂う
の助けでピンク水色も。

画家が描き出した
彼の内なる異形のものは
もはやモノクロームの世界には戻らず
眼がふたたび闇に棲むこともなかった。

色彩は、光の鼓動。
太初のいのちを歌う
新しい歌。

1914年、ルドン、七十四歳。
この年、第一次大戦が始まり
五十歳を目前に授かった愛息アリも
招集されて戦場へ赴く。
その生還を待たず、二年後
ルドンは旅立った。

            🐌🍃

黒い梅酒を
酒器に移す。

透明な
切子ガラスに収まった流体の黒は
夜来の雨で洗われた緑を映し
朝の白光を一瞬、
青と黄に分かって見せた。

果実酒を注ぎ、杯を傾けると
ブランデーの内省的な香とともに
爽やかな華やぎが口腔に広がる。
純白のロマンティック・チュチュをつけた
バレリーナが ♡ ♡ ♡  深い森で ふわっふわ
空中を舞っているみたい、ニャー!

シワシワの「まっくろくろすけ」たちも
テキトーに刻んでサラダに載せると
しゃきしゃきレタスとよく合った。

現在(いま)では
ねこじゃら荘のウメの木も
大きく立派な実をつけるけど
横着子猫の梅しごとは
梅酒でも梅干しでもなく
梅甘露。

黄色く熟れた青ウメたちは
ほんのり紅の薄化粧
氷砂糖に囲まれて広口の瓶の中
夢見て待つのは
盛りの夏……。

梅 実るころ
光に恋した猫たちは
枝垂れ葉群れにスリスリ
朝露のしずくに
虹を見つけて。

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