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『六平太藝談』小ネタ(1):圓朝の高座をリアルに観ていたお能の名人

『六平太藝談』は、昭和17年発行の春秋社版が初版で、のちに昭和27年河出書房市民文庫版、昭和40年同信社版と出ている。その後たぶん昭和40年版が、喜多六平太が亡くなった時とか、何度か復刻されてるっぽい。

昭和40年版は昭和17年版を底本としつつ戦後や、おそらく出版当時に近い頃の芸談も追加されている。曲目解題、索引、年譜が付いているのがありがたい。

なんとなく昭和40年版との異同を較べたいな、程度の気持ちで昭和17年版を入手したところ、今までふわっと見過ごしていたことに気づいた。

「寄席芝居」と題された一編から抜き書きしてみる。(昭和40年版からなので、漢字が新字になってます)

三遊亭円朝といへば、今でこそやかましく名人だとか何だとか騒いでるが、その時分の人だつて全部が騒いだわけぢやない。かへつて円遊のすててこなんかの方が人気があつてね。真打の円朝が出る頃にはお客は半分位しか居ないといふやうなあんばいだつた。それに第一、円朝の落語には、寝そべつたり、あぐらをかいてちやあ聴けないやうな堅苦しい処があつてね、寄席のお客に少々不向きだつたんだらう。いまで云ふ大衆向きぢやなかつたんだね。しかし芸はよかつた。しんみりとしたうちに、何とも云へない上品なところがあつてね。真打と云ふものはかういふものだらうと思つた。それと小さんが上手だつた。この間死んだ小さんの一代前の小さんだよ。この間死んだ人よりたしかに一枚上だつた。まづその頃の高座ではこの二人だとおもつた。落語家が都々逸や踊をやるやうになつてからは段々高座が乱れてきて、もういい落語は聴けなくなつた。近頃のは大抵くすぐりさ。

喜多六平太が若い頃に三遊亭圓朝の高座を観ていた、というのは初めて読んだ時に「ヒェッ」ってなってたんだけど、この一編は昭和17年版にも収録されているので、「この間死んだ小さんの一代前の小さん」とは、二代目小さん(禽語楼小さん)なのだった。
いや、圓朝を観てるなら二代目小さんを観ていて不思議じゃないんだが。「まづその頃の高座ではこの二人」なんだし。でもなんか凄い。そして、圓朝や二代目小さんを寄席で観ていた人が、1972年までご存命だったっていうのも凄くないですか。

小さんは、二代目と三代目がともに武家出身で、そのせいか柳家の芸には「武張った」面も受け継がれているそうだ。武家から噺家になるってそれだけで落語み深くてグッと来ますな。

十四世喜多六平太も、御母堂が武家に嫁いだので武家の生まれである。
そうそう、「六平太藝談」には、御母堂の「ま…マンガ化はよ…K原T江先生かN香T子先生のタッチで頼む…」的な素敵エピソードが載っているのだった。それはまた次の機会に。

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