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書評: 品田遊『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』

0. なぜいきなり書評をしだしたのか

 この記事の目的は品田遊『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』という対話形式小説を評することである。私がこの本を評することに決めたきっかけは、この本の参考資料に私が書いた以下の記事が載っていたからである。

 以上の記事を書いた時点から私の考えは変わってはいるが、ともあれ参考資料として使用されたことは嬉しく思うので試しに(?)書評をしてみようと思った次第である。この記事の読者は本を一読されたものとして話を進める。したがって話の内容をいちいち確認することはしない。本記事では倫理と道徳は同じ意味を持つものとして扱う。

 この記事では四つのトピックがある。一つ目に、この本の優れている点を挙げる。それは、対話形式の小説という形式にしていることによるものである。二つ目に、この本の内容について指摘しておきたい点を述べる。研究者ではない者が書いた小説であるから、内容に不正確な部分があってもあまり追求するべきではないかもしれないが、倫理の領域における議論はそれが到達した結論によって人の人生を良くも悪くも大きく変えてしまう力があるから、むしろ誰の議論であろうともあえて手加減せずに指摘することが必要なのかもしれない。

 三つ目に絶滅主義の議論をいくつか紹介する。反出生主義の中でも品田が特に関心を有する立場は絶滅主義のように思われる。まだあまり注目を集めていない議論を簡潔に確認して、必ずしもべネターの段階的絶滅だけしか存在するわけではないことを示したい。

 四つ目にこの本について評者が思ったことやストーリーの解釈を自由に論ずる。ここは私の道楽的な部分が続くから、退屈だと思われたら読まなくても結構である(むろんここだけに限らず他の箇所も)。

 一点注意して欲しいことがあるが、本記事で私は、一般的には不道徳的であると見なされている主張や過激とみなされうる議論を行う。人によってはそれを見ることで大きな心理的負担を感じるかもしれない。本記事にそのような記述が含まれていることをあらかじめ理解されたい。

1. 良かったところ

 この本を読んですぐに気が付くのは、議論を行う人間にパーソナルカラーが割り振られ、その色がその人物の主義を反映しているということである。悲観主義者のブルー、楽観主義者のイエローや反出生主義者のブラックらが議論を戦わせているわけである。これが優れているのは、読者が自分の立場に近いと思った登場人物に自己投影をして話の内容にスムーズに入っていけるからである。さらに、この小説は対話形式だから、まったく考え方の違う人物たちの主張がぶつかり議論が深まっていく様をみて読者は自分の違う立場がどのような意見を言うのか、それに対してどのように応答すべきかを知ることができる。

 反出生主義に関する書籍や論文は基本的には単一の立場を主張するから、この本のように様々な立場を一度に見ることができるのは貴重である。内容の性質上、反出生主義の議論では感情的になりやすい。そもそも話が嚙み合うことすらないかもしれないし、しかもそれを議論すること自体が人間関係に影響を及ぼしやすいから、現実ではあまり議論ができない者がいるだろう。もしそのような人がいればこの本を読むことで他者との議論の予行練習ができる。これは非常に有用である。品田は、むしろこのように対話形式をとることで、様々な立場の人物が反出生主義の議論をしていく中で現れる"嚙み合わなさ"(品田 2021, p.224)を表現したいという狙いが読み取れる。

 二つ目の美点としては、この本の物語はフィクションとして描かれているということである。これによって反出生主義というラディカルで論争的なトピックを(良くも悪くも)気軽に触れることができる。この考えを最初に接するときは少なからず衝撃を感じるものであるはずだから(『生まれてこない方が良かった』という書名を最初に見たときは驚く人の方が多いだろう)、反出生主義をあまりにもカジュアルに消費されてしまうという懸念はあるものの、それをマイルドな形で知る機会を得ること自体をまずは歓迎すべきかもしれない。その立場に賛成するにしろ反対するにしろ、反出生主義の主張を正確に理解するにはべネターの『生まれてこない方が善かった』を読む必要があるが、人によっては中身が専門的過ぎる恐れがあるし、第3章のQOLの議論や第6章の絶滅の議論は負の感情を著しく惹起してしまうだろう(現に私は『生まれてこない方が善かった』を読む途中で気分が悪くなり読書を一旦中断せざるを得なかったことがある)。それに比べれば、品田の著書はフィクションの体裁を取っているからまだ心理的に読みやすい(はずである)。

 三つ目は、議論の範囲を反出生主義だけに限るのではなく、そもそも道徳とは何か、なぜ道徳に従わねばならぬのか、という論点を提起したことにある。この内容は後に検討するが、この問題提起によって道徳というものに対して深く考えるきっかけを提供している。実は、反出生主義は道徳・倫理として主張されているのであって、広範に受け入れられている「物を盗んではいけない」「人を殺してはいけない」という考えと地続きにこの反出生主義があることが示されているのだ。これは驚愕するべきことである。倫理や道徳の目的とは「幸福の実現」と「不幸の回避」(品田 2021, p.51)とすれば、それはむしろ生殖行為をやめて絶滅を称揚する結果を招くからである。我々の生活を改善するものだったはずの倫理がそのような帰結を導くことは、もしかすると倫理における最大のスキャンダルかもしれない。この本を読むことで、倫理とは何か、という問題に深い関心を持つ読者が現れるだろう。

2. 懸念点

 品田の本は反出生主義における基本的な文献が参照されたうえで執筆されたものであり、私が読んだ限りでもその本で展開される反出生主義の議論は十分な正確性があるとして良い。しかし、いくつか指摘しなければならない重大な点がある。それを見ておきたい。

(a)「反出生主義」という言葉について

 「反出生主義」とは「すべての人間あるいは感覚ある存在は生まれるべきではない」(森岡 2021, p.40)と主張する思想なのだが、この定義は実は暫定的なものであってその意味するところは論者によって大きな差異がある。「出生」という語は単にこの世に生まれ落ちることを意味しているに過ぎず(魔王がどのように出生したのかを見よ。あれを生殖と言うのはいささか奇妙である)、何か厭世的なことを言っているだけのように見えるから、例えば反出生主義という言葉を初めて見聞きした者は「反出生主義だって?じゃあなんで自殺しないの?」という反応をすることが多い。しかし、べネターの著書を一回でも読めばわかるように生殖を拒絶することが倫理として要求されることが述べられているのである。

 榊原(2021)は、反出生主義の内に主に三つの立場があることを指摘している(榊原 2021, p.37)。

 pro/anti-birthism( 親/ 反誕生主義): 自分自身が生まれてきてよかったかどうかを問う立場。この問いは次のように問われる。「私は生まれてきてよかったのだろうか?」。この立場は、別の二つの立場と比して実存的な色彩が強い。 
 pro/anti-procreationism( 親/ 反生殖主義): 生殖行為によって子どもを作ってもよいかどうかを問う立場。この問いは次のように表される。「私は子どもを作ってもよいだろうか?」。
 pro/anti-extinctionism( 親/ 反絶滅主義): 人類もしくは感性的主体は絶滅するべきかどうかを問題にする立場。

  例えば、ブルーが「どうしてこんな世界に生まれてきちゃったんだろう」(品田 2021, p.24)と言ったとき、ブルーは誕生主義の観点に立っていたのである。しかし、それは直ちに反生殖主義の主張に結びつくわけではない。なぜなら、それは単にある個人の人生に対する見方に過ぎないのであり、そこからすべての人は生殖行為を行うべきではない普遍的な論拠を提出できないのである。現にレッドが「それはあくまで「僕は」の話だろ?」(ibid.)と指摘している。

 反出生主義における議論においてこの二つが混同されていないかはよく注意する必要がある。反出生主義には意味的にこの二つの立場が読み取れるゆえに、同じ「反出生主義」という語を使用しつつも実はまったく違う事柄を話していたということが起きている。したがって、例えばべネターの立場は正確には反生殖主義と呼ぶべきなのであり、私は反出生主義という語は混乱のもとになるから極力使用するべきではないと考えている。

 さらに、反生殖主義と絶滅主義も実は分離した立場である。つまり、生殖を否定したからといって必ずしも人類は絶滅すべきであるとは導かれない。その理由はここでは述べないけれども(非常に簡単に言えば、生命を生きるうえで苦しみを完全に取り除くか、不老不死になることが可能になれば生殖を非としつつも絶滅を回避することが可能である)、このことは覚えておく必要がある。品田がもっとも関心をもつ立場はこの絶滅主義だと私は推測している。というのも、まず書名が「ただしい人類滅亡計画」とあるように人類の滅亡がまっさきに言及されているうえに、魔王が、人類が滅亡すべきかどうかを当の人類に議論させるというあらすじからも、単に生殖行為の倫理性だけではなく絶滅への深い関心があるように思われる。しかし、これも誕生主義と同様、生殖主義とは違う立場であることは理解しておくべきである。

(b)「絶滅主義」という立場について

 反生殖主義と絶滅主義が別の立場と述べたが、実はべネターとは独立に絶滅を擁護した議論が存在する。それは小林和之によって展開されている。詳細は後に見る。それはべネターのように絶滅を目的として行うものではなく、各々がベストな行為をした結果絶滅しても構わないという消極的絶滅主義である。小林は反生殖主義者ではない。それにもかかわらず絶滅主義の立場を擁護している先駆的な議論を行っている。べネターのものは積極的絶滅主義と呼ぶことができるだろう。品田の本もべネターの議論をもとにしているから、そこで議論されているものは積極的絶滅主義であることを留意しておく必要がある。

(c)その違いはどう正当化されているのか?動物への素朴すぎる見解

 品田の本のなかでは野良猫の保護問題が取り上げられている。ある地域では野良猫の去勢を行う活動があり、それは反生殖主義的な観点から行われていると言えると言う。なぜなら、野良猫は常に外的の脅威に晒されており、また飢えや病の危険と隣り合わせの生活を余儀なくされるので、子どもを増やせなくさせることが苦しみに直面する子供の数を減らすからである。べネターも、自身の議論は人間だけではなく動物を含めた感性的主体一般に広く当てはまると述べている(Benatar 2006, p.223)。となれば、人間にもそのような去勢を強制的に行うべきなのだろうか。

 この問いには、品田の本では否とされている。なぜなら、「猫と人間では、知性に圧倒的な差があるのは否定できない」からであり、「猫は去勢手術をされたところで、何が起こったのか気づきすらしない。だが人間はそうじゃない」からであると言う(品田 2021, p.69. 強調は原文)。ここで品田本人の意見がそのまま展開されているわけではないとはいえ、この理由で猫だけにそのような去勢を行って良いとするのは疑問符が付く。まず、何かをしても気づかされさえしなければ良いとなぜ言えるのだろうか。猫が気づこうと気づかまいと、その猫は一方的に去勢手術による害(主に手術を受けることのストレス)を受けているのである。例えば、私が眠っている間に経口投薬による安楽死が秘密裏に遂行され、そのまま私が死に至った場合、(死が害であるとすれば)私は投薬されたことに気づかぬままだったにもかかわらずそれによる害を受けているのである。だが、何か害を受けたのではなく、去勢をされたという事実に気づいてるかどうかなのだ、と反論されるかもしれない。その場合、赤子に対する割礼も害ではないということになる。しかしながら、身体の一部を切り取ることはそれによる強い痛みを引き起こすから明白な害であり、それにもかかわらず言葉を介さない赤子は何をされたのか理解していないだろう。だからといってそれが割礼の害を打ち消すことはない。したがって、去勢をされている主体がそれに気づいてるかどうかは猫と人間の取り扱いを変えることを許容する正当な理由足りえない。

 人間と動物の扱いを変えることを許容するもう一つの根拠として、「知性」が挙げられる。「猫には人間ほどの知性はない」(ibid.)。知性が重要な理由は、「知性が高度であるほど、そこに生じる不幸もより大きいと考えられるから」だと言う。しかし、それは何の根拠があるのだろうか。知性(なるもの)と不幸(なるもの)が比例関係であることを示すエビデンスは出されていない。これは原理的な議論ではなく、ある事実についての命題を言っているのだから何かしらの参照元が必要だろう。品田の本で言われる「知性」と「不幸」が何を指しているのかは不明だが、知性が高くなくとも感覚が過敏だから外傷による痛みが激しくより不幸であると言えるのではないか。

 ここでの議論が素朴すぎるのは、知性というカテゴリーを作ったときにそれで人間と動物の完全に区別できると単に想定していることである。ピーター・シンガーが論じたように、人間であっても何らかの知的な障害を持つために非人間種よりも知能が低い個体が存在する。その者に対して他の人間と同じ扱いをするというのであれば、知能というカテゴリーで人間と動物をわけることはできないことを認めざるを得なくなる。

 以上のことに鑑みるならば、べネターが言うように人間と動物を含む感性的主体一般に反生殖主義の議論は適用されるのであり、動物へある扱いをするならば、何か特別な理由がない限りそれは人間にも同じ扱いを許容しなければ理にかなっていないことになる。動物に関する品田(の本に登場する者たち)の議論は問題があると言わざるを得ない。

3. 他の絶滅主義の議論  

 本節では、べネターの議論が日本に知られる前の絶滅主義の擁護論を確認する。その議論は小林和之によって論じられた(小林 1999)。

 小林和之(1999)の議論を要約すると以下のステップになる。

1. 人類が使用できる自然資源には限りがある。
2. 絶滅そのものは悪いことではない。
3. 人口を増やすことによる環境的負担は、人口を増やした個人によって補填されるべきである。

 1. 小林はまず、地球に存在する資源は有限であり、永遠に豊かな生活を続けたい我々の欲求を実現するには困難があることを指摘する(小林 1999, p.5)。しかし、快適な生活をしたいという欲求それ自体は何ら悪いことではなく、むしろそれが苦しみの回避を伴うのであれば積極的に達成すべきことであると言うことができる。資源の有限性という制約があるなかで快適な生活をどのように実現できるかが問題となってくる。

 ここで、小林は「人類絶滅は絶対に回避しなければならない」という思い込みを捨てることで発想を変えることを提案する(ibid.)。驚くべきことに、「人類滅亡は、それ自体としては恐れる必要がな」く、「それどころか人類の計画的滅亡は合理的な選択肢でありうる」とまで主張するのである(ibid.)。

 2. 地球の資源が枯渇してしまうことを警告する議論があることを確認しつつも、小林はそこで「人類存続の危機」が重大な問題であることが自明視されていることを指摘する。しかし、滅亡はなぜ悪いのかを一度考えてみると、それは人生の暴力的中断によるものが原因ではないのだろうか。つまり、資源の枯渇によって生命を途中で終了させなければならない状況に追い込まれてしまうことが恐ろしいと考えられるのではないか。

 例えば、滅亡の二つのケースを考えてみよう。一つ目のケースは一か月後に地球に隕石が衝突してそのまま滅亡してしまうケースである。もう一つのケースは、すべての人類が天寿を全うしていった結果、誰も子孫を残さなかったからたまたま人類が滅亡したケースである。どちらのケースも人類は滅亡に至っているが、前者のケースはいきなり滅亡に直面してしまった一方で、後者は個々人が幸福な状態で亡くなった結果偶然に滅亡したから、これが直ちに悪いとはいえない。

 そうすると、滅亡が悪いというより、暴力的に終了させられてしまうことが悪いように見える。以下のマトリクスは、生命の存亡に関する行動と結果のマトリクスである(小林 1999, p.7 を参考に作成)。

計画的と無計画的滅亡

 このマトリクスの中で、どれが望ましくどれが望ましくないシナリオだろうか。多大な苦痛や悲惨を引き起こすだろうから無計画的滅亡は望ましくないことはわかるだろう。では無計画的存続はどうだろうか。これは情況によりけりだが、無計画的滅亡よりはマシなはずである。問題は、計画的滅亡と計画的存続のどちらがより望ましいかである。それを決定することは困難とはいえ、選択として計画的滅亡はありうることを主張する。そのために、小林は人類が滅亡する三つのケースを想定する(ibid., pp.9-14)。

ケース1
 全世界の女性(より厳密には子宮を持つ人)が自由に権利を行使できるという想定のもと、その女性たちが偶然に同時に生殖を拒否した。そうなると人口が増えることはないから、新たな生殖技術を開発することができなければ人類は滅亡する。このとき、人類の存続を至上の価値であるとすれば、むしろそれは反倫理的な帰結を生むことになる。
ケース2
 きわめて伝染力が強い伝染病が世界で蔓延しているとしよう。この伝染病はきわめて致死性が高く、ほとんどの場合死を免れることはできない。しかし、いったん治癒すると強い免疫のようなものができる。何らかの理由でこの免疫のメカニズムを現代の医学で解明することはできない。
 さて、この病気にきわめて効果的なワクチンのようなものが開発できた。これを摂取すればその伝染病に感染することはなくなる。しかし、このワクチンには副作用があり、それは生殖能力を失ってしまうというものだ。したがって、このワクチンをすべての人が接種すれば人口が増えることはなくなり人類は滅亡する。この状況において、人類の存続を可能にするためにワクチンを禁止することは許されるだろうか。
ケース3
 問題を単純化するために、情報がすべて完全に手に入る状況を想定する。地球にはただ一つの小さな島しか存在せず、そこに都市が一つだけある。人類が使用可能な資源はこの島からしか産出せず、それを正確に計算できる。さて、時間の経過とともに利用可能な資源は減少し、ついにある臨界点に達する。それは都市の現在の住人すべてを安楽に一生養うには十分であるが、人口を増やしてしまうと資源が不足してしまうという状態である。このような状況において、この都市の住民が、子供を作らず安楽な暮らしを一生続けることを選択すれば人類は滅亡する。

  以上のケース群を見ると、人類の滅亡を選択することは必ずしも悪いことではないことがわかる。その選択は、コストとの比較でなされることになる。ケース1では子宮を持つ人の身体的自由、ケース2では多くの人命、ケース3では安楽な生活が秤にかけられるのである。

 確かに滅亡すること自体は悪くはないのかもしれないとしても、人類の滅亡を選択するのは誰か、という問題が生じる。もちろんそれを特定個人によって決めさせることはできないだろう。では集団的決定、つまり代議制議会や国民投票等によって人類の存亡を決めさせるべきだろうか。しかし、小林は、子どもを産むべきかどうかを決める選択に対して国家が直接干渉することは個人の尊重の理念に反し、許されないと述べる(ここでは反出生主義のことは一旦置いといてほしい)。そうすると、残された道は人類の存亡の決定を各人が自由に選択し、その選択の集積によって存亡が決定されるようなシステムを採用すべきであると小林は主張する。

 3. その人類存亡システムとはいったい何だろうか。小林は、「子供を作ること即ち人類の存続を選択することは、地球環境の負荷を増大させることだから、環境に有害な物質を排出する者が、環境を保全するコストを負うべきであるという汚染者負担の原則が成り立つなら、同じ原理で子供を作る者は子供が与える負荷のコストを負担すべきであるということになるはず」であると言う。人間が増えれば増えるほど、それに応じて養うための資源量が増える。子どもを持つことが人類の存亡にかかわる選択であるならば、それによるコストの負担を行わせるべきであると主張するのだ。

 しかし、それが具体的にどのようなシステムなのかは明示的には述べられていない。一つの解釈としては出産に対する課税などが考えられる。しかし、小林の議論に即するならば、人類の存亡にかかわる選択は他にも多岐にわたるはずだから、原理的には出産だけでなく様々な活動にもそのようなコスト負担が要求されるだろう。

 以上、反出生主義とは独立に絶滅主義の議論が存在することを示した。

(b)misanthropic 反生殖主義の議論

 さらに絶滅主義の議論は存在する。それはべネターによるmisanthropicの観点からの反生殖主義である(Benatar 2015)。この節の議論では(The Real Argument 2019)を参照している。

 べネターが『Better Never to Have Been』で議論しているのは、生まれてくる感性的主体の利益に基づいたphilanthropicなものであるが、ここで議論されるものは生まれてくるものが他の感性的主体に害を及ぼすことを問題視するmisanthropicなものである。

べネターはabstractでこのように言う。

 この章は、アンチナタリズムを支持する厭人主義的[misanthropic]な道徳的議論を提示する。この議論に従えば、我々は多大な危害をもたらす種に属する新たな一員を生み出すことを思いとどまる推定義務を負っていることになる。人類本性には、人類を他の人間やヒトでない動物に多大な痛み、苦しみ、そして死をもたらすよう導く邪悪な側面があるという広範な証拠が与えられる。一部の危害は環境破壊を通してもたらされる。その結果生じる新たに人間を生み出さないという推定義務は、例え打ち負かされることがあったとしても非常に稀なものとなる。すべての厭人主義が人間の道徳的過ちに関するものではない。この章に続くappendixにおいて、生殖に反対する美的考察が提示される。

  しかし、ベネターはここでのmisanthropicの議論は、人類についての好ましくない側面を指すだけであり、人間を憎むことにコミットするわけではないと指摘する。以上の議論は三つのステップで論証される。

1. 我々は、多大な危害をもたらす(そして、おそらく今後ももたらし続ける)種に属する新たな一員を生み出すことを思いとどまる(推定的)義務を負っている
2. 人類は多大な痛み、苦しみ、そして死をもたらす
3. したがって、新たな人間を生み出すことを思いとどまる(推定的)義務を負っている

 べネターは、一つ目のステップを議論する前に、二つ目の議論を始める。

α)人類本性ーその邪悪な側面

 べネターは、ホモ・サピエンスは自分たちが理性的な存在であると自負しているが、いかに愚かな種であるかを具体的に説明する。たとえば害や中毒性を知りつつもたばこを始める者や、アルコールの過剰摂取、広告業界や政治的扇動および情報操作の成功に見られる騙されやすさ、スポーツや流行など不合理なものに真剣になる様、音楽や映画スターへの大衆的へつらい、容易に極端な暴力につながる人の同調性や権力への服従の性質などである。

 しかも人類はきわめて有害な存在であるとべネターは言う。

 多くの動物は危害をもたらすが、我々はこれまでこの惑星上に生息した中で、最も致死的な種である。このような性質を自分たちのこの上ないアイデンティティとしては言及しないということが、実のところなのである。我々は、ホモ・ペルニシオサス(Homo perniciosus)、すなわち危険で破滅的なヒトであるという広範な証拠が存在している。

人類が及ぼす危害として、人間から人間への危害、ヒトではない動物への危害、環境への危害の三つを分類する。

1. Inhumanity to humanity

 人類は誕生以来、個人間の殺し、戦争、独裁者の指導による大量の虐殺を行ってきた。さらにはレイプ、誘拐、拷問など、その残虐な行為は枚挙にいとまがない。そのような害を根絶することが今の社会にはできていない。

2. Brutality to "Brutes"

 人間への危害よりもさらに深刻なのが、ヒトではない動物への危害である。

人間は毎年、何十億もの動物に計り知れない苦しみと死をもたらしており、圧倒的多数の人間が、その重大な共犯者となっている。

 その具体的な内容を非常に長くなってしまうが引用しよう。

毎年、630億を超える羊、豚、牛、馬、山羊、ラクダ、水牛、ウサギ、鶏、アヒル、ガチョウ、七面鳥などの動物が人間の消費のために屠殺されている43。さらに、約1,036億の水生動物が人間の消費や食品でない用途のために殺されている。
 これらの数の合計、すなわち1,660億を超える動物の数も、人間に動物の肉を提供する産業で毎年殺されている動物の総数にはならない。卵を生産できないために、家禽産業によって間引かれる数億の雄のヒヨコは除外されている。このような殺害の世界全体での年間数の推定値はないと思われる。しかし、米国(2億6000万)および欧州連合(3億3000万)を含むいくつか特定の国や地域での数値ならある。
 公式の屠殺数には、アジアで食される犬や猫も含まれていない。これについて信頼できる数を得るのはさらに困難であるが、ある計算では年間数を、犬について1300万から1600万、猫について約400万としている。同様に除外されているのは「混獲」である。すなわち、カメ、イルカ、サメ、海鳥などの動物が、意図した漁獲対象でなくとも網に巻き込まれてしまう。このカテゴリーで殺された動物の信頼できる算出数はないが、船外に廃棄された「混獲」の一部は、約50億の海洋動物に相当する。
 これらの動物の死のうち圧倒的多数は、痛みやストレスを伴うものである。ヒトは、数百万の雄のヒヨコを様々な方法で殺す。米国では、ほとんどのヒヨコは、しばしば電動化された「殺害」プレートに高速で吸い込まれて殺される。別の場所では、窒息か粉砕、あるいは英国ではガスまたは瞬間的な浸軟によって殺される。ブロイラーや用済みとなった産卵鶏は、コンベヤーベルトに逆さまに吊り下げられ、喉を切り裂かれる。豚や他の動物は、屠殺場への移動を促すために殴られ、ショックを与えられる。屠殺場では刃物で喉が切り裂かれるか、突き刺される。その前に気絶させられる場合もあるが、されない場合もある。
 海洋動物もそれ以上にマシな扱いはされない。彼らは通常、水中から出ると窒息死するが、水面に向かう途中にも苦しみはある。深海からトロール船によって急速に引き上げられる魚は、気圧のトラウマに苦しむ。体内に気泡が発生し、極度の痛みを引き起こすのだ。うきぶくろも大きく膨らむ。「場合によっては、圧力が非常に大きく、胃や腸が口や肛門から押し出される。目も歪んで膨れ出てしまう」。ラインと餌によるより小さな規模で釣られる魚は、彼らが命をかけて戦うフックのトラウマに苦しむ。一部のヒトは、魚は痛みを感じないと信じたがるが、かつて哺乳類動物についても保持されていたこの慰めのフィクションは、証拠の光に照らされて枯れ落ちる。高度に知的な哺乳類であるイルカの死はさらにひどいものになりうる。彼らが混獲ではなく、漁師の意図した獲物にされるとき、彼らが屠殺されることになる湾に追いやられる。クジラも哺乳類であり、海において銛で狩られる。 
 人間の手によってもたらされる動物の苦しみは、人間が動物を殺す時に制限されるわけではない。たとえば、鶏は通常、バッテリーケージの非常に限られたスペースで飼育される。彼らは翼を広げたり動き回ったりすることはできない。彼らが本能的に行う砂浴びなどの活動をすることもできない。彼らは、不快感と共に、金網の床の上に立っているしかない。そのような状態は鶏たちの精神を乱し、お互いに突き合うため、この苦しみの一生を運命づけられたヒナたちは、熱い刃でくちばしを切断される。ある鶏の群で産卵数が減少すると、その鶏たちは箱に詰め込まれ、屠殺場に運ばれる。
 子牛と分娩豚は、彼らが一生を通して動くことができないほど小さなスペースに閉じ込められる。牛には乳量を増やすために、 ウシ成長ホルモンを与えられるが、これはしばしば乳房炎、つまり痛みを伴う牛の乳房の炎症を引き起こす。ヒトは、豚や牛を含むさまざまな動物に対し、尾を切り取り、去勢し、角を取り除き、各印を押すなどを、すべて麻酔なしで行うことにより、身体を侵害する。動物たちはしばしば、目的地で屠殺されるために、窮屈で不潔な条件の下、トラックや船で莫大な距離を運ばれる。
 人間の食糧生産だけが動物が虐待される目的では決してない。毎年何百万匹の動物が科学実験の影響を受けているかを知ることは困難であるが、控えめな計算でも、少なくとも1億1500万はいることが示唆されている。さらに、科学における動物利用の「3つのR」(代替、削減、改善)にコミットしているにもかかわらず、実際には、少なくとも一部の国では、毎年用いられる動物の数を増やしている。
 多くの恐ろしい実験が行われてきた。動物が受けた拷問的扱いの全範囲を要約することは困難であるが、いくつかの例は、人間が動物にもたらしてきた残虐行為の様相を示している。かつては、動物が完全に意識的なまま解剖されていた。1960年代という最近に、意識のある犬がマイクロ波にさらされており、結果として舌が腫れ、皮膚がカリカリになり、温度が十分に高ければ死に至っていた。
 その10年と続く10年で、サルは米軍によって大量の放射線にさらされた。その結果、サルは「痙攣、つまずき、転倒、嘔吐を起こし、快適な姿勢を求め、明らに実りなく終わりの見えない捜索のために身体をひねり続けた」。
 心理的トラウマももたらされてきた。 (悪)名高い一連の実験では、幼児のサルが母親から引き離され、母親と幼児の両方が深刻な苦痛を生じさせられた。その後、乳児は、いかなる接触も奪われた。彼らの母親はマネキンに置き換えられた。そのマネキンは乳児に空気を吹き付けるか、歯が鳴るまでガタガタ音を立てたり、ケージの端まで投げ飛ばしたり、針で刺したりするようになっていた。これらの方法で「飼育された」メスは、その後、強制的に妊娠させられた。彼ら自身の生い立ちを考えれば、その結果生まれる子孫を世話することができなかったのは当然であり、乳児を暴行したり、傷つけたり、殺すことさえあった。
 現在の基準では、このような実験の多くは動物研究倫理委員会の承認をもられないだろう。しかし、現在の基準でも、人間が動物に対して、死を含めた著しい危害を加えることを許可している。例えば、毒性試験(医薬品と化粧品の両方)は、死が結果として意図あるいは予想されるものであり、通常は中毒による死に向かう道に伴う苦痛が先行する。別の動物は、運動ニューロンの変性を経験するか、あるいは「オンコマウス」のように癌を発症するように遺伝子操作される。人間はまた、坐骨神経痛などの痛みを伴う状態の実験モデルを作成するために動物に手術を施したり、ラット、ウサギ、猫、犬、猿などのさまざまな動物に脳卒中のような症状を引き起こさせたりする。彼らは動物をエタノールやメタンフェタミンなどの物質や、これらの物質による影響にさらす。そのような実験を行っている人々は、仲間の人間の大多数から称賛を受けている。
 無関心の結果として残虐行為がなされることよりも、我々の種の有罪を示す決定的な証拠は、人間の娯楽のために残虐行為が引き起こされる場合である。牛攻めや、熊攻め、アナグマ攻め、あるいは他の動物による同様の行為を考えてみてほしい。餌を与えられた動物はポールにつながれ、人間の観客の喜びのために犬に襲われる。闘鶏、闘犬、そして闘牛は今日も続いている。
 他の「スポーツ」も、それが目的ではない場合にも動物に苦痛や死をもたらす。競走馬は、レーストラックをより速く走るよう促すために鞭を打たれる。彼らは、しばしば違法に、パフォーマンス向上の薬物を注入される。レース中には定期的に骨折が起こるが、その場合彼らは「安楽死」させられる。老齢であったり走れないほど弱った馬の中には、屠殺に送られるものもいる。人間の娯楽のために苦しむ他の動物は、動物園に閉じ込められたり、サーカスでパフォーマンスをさせられる。
 人間が最も感情的な絆を持っている動物、つまり犬や猫などのドメスティック・コンパニオ動物でさえ、大規模な虐待から逃れられない。一部の人間は、これらの動物を小さなスペースに閉じ込め、叩き、適切な運動や食事を与えない。残酷行為は枚挙にいとまがない。たとえば、有名な19世紀の探検家であるヘンリー・モートン・スタンレーは、犬の尻尾を切り落として調理し、その犬に食べさせた。ひどい残酷さは我々の時代にも残っている。2006年8月、イギリスの女性は熱湯に子犬を溺れさせようとした。その試みを生き延びた犬は、その後死ぬまで放置された。これは「おそらく1週間は続いた」。他の最近のケースでは、男が犬をオーブンで焼いて殺したし、別の人はマチェーテで猫を斬首した。他にもそのようなケースが数千とある。
 毎年何百万もの犬と猫が捨てられている。彼らが送られるシェルターでは、圧倒的多数が家を見つけることができないために殺される。非常に多くの必要とされないドメスティック動物がいる状況において、驚くことに人間はそのような動物をさらに積極的に繁殖させ、ひたすら問題を悪化させている。これらの繁殖活動は非公式で小規模な場合もある。しかし、はるかに大きな問題は、いわゆる「子犬工場」(あるいは「子猫工場」)であり、これらは、しばしば劣悪な環境で適切な注意の向けられない環境で、非常に多くの動物を生産する。目的はブリーダーの利益を最大化することであり、動物の福祉に注意が払われているケースは稀である。

3. 環境に対する有毒性

 最後に環境汚染や森林伐採などによる危害が指摘される。

β)規範的前提

 ここまで二つ目のステップである人類の有害性を見てきた。次に最初のステップに移る。それは以下のものだった。

 我々は、多大な危害をもたらす(そして、おそらく今後ももたらし続ける)種に属する新たな一員を生み出すことを思いとどまる(推定的)義務を負っている

 以上に関して、いくつかの注意がなされる。この命題は危険な種を間引くべきだと主張することではないし、他者が危険な種に属することを妨害することを許容するものではないことである。これはあくまで各個人が生殖を行うことを控えるべきであることを主張する。

 さらに、この命題が正しいものであるためにすべてのメンバーが苦しみや死をもたらすものである必要はない。例として、赤信号を無視することが常に危害を生まなくても、赤信号では止まるべき義務があることが出されている。

 この命題はさらに、その適用範囲がヒトなどの具体的な種に限定されないことにも注意する必要がある。例えば、危険な非ヒト動物が人間によって繁殖されることやウイルスの複製も含まれる。

 しかし、以上の議論に対して、繁殖を控えるのではなく人類の破滅性を許容可能なレベルまで抑える努力ではいけないのか、という反論に対しては、べネターはそれはナイーヴな夢想家の考えであると退ける。ここで、べネターはスティーブン・ピンカーの議論に対して反論しつつ議論している。

γ)推定的義務

 最後のステップは「したがって、新たな人間を生み出すことを思いとどまる(推定的)義務を負っている」というものだった。第一のステップと第二のステップが論証されたならば、我々は新たな人間を生み出してはならない推定義務を持つことになるが、その義務を上回る場合があるかどうかが検討される。

 人間がもたらす善が危害を上回ることが可能だと言う議論に対してベネターは、その善は人間に対するものだけでなく、ヒトでない動物に対しても有効なものであり、さきに示した深刻な害を相殺するほどのものでないといけないが、そんなことはありえないだろうと指摘する。

 私が記述したおぞましい破壊よりも、善良な人間の行いが実際にそれを上回るとプロナタリスト[pro-natalists]が考えるのなら、何らかの具体的な詳細を聞かせてもらう必要がある。おおよそどれほどの善が生物を切り刻むことを上回るというのだろうか?どれだけの善が集団レイプを上回るのか? どれほどの善がルワンダの虐殺やジョセフ・スターリンの粛清を上回るのか?


 他にも、殺人を犯した者がその罪を償うためにできることなどないし、種全体で考えても、ある期間にn億の命を奪ったその種が同じ期間にn億+1つの命を救ったとしても、その奪ったn億の命を救ったことにはならない。もし埋め合わせることのできない危害の閾値があるとするなら、明らかに人類のもたらしている危害はそれを超過してしまっている。

 以上の理由から、べネターは義務が推定的に打ち負かされる可能性を退ける。ただしほんの一部のヒトであればありえないこともないとするが、大半の人間が持つ楽観主義的バイアスと自身の行為を正当化しようとする性質があるからやはり誤った判断をしかねないと言う。

 そしてべネターはこのように結論する。

 アンチナタリズムの議論は結論において幅がある。最極端においては、アンチナタリズム的結論はあらゆる生殖に反対するものとなる。しかし、よりマイルドなバージョンでは、選択されたケースでの生殖のみに反対する。
 博愛主義的議論は広範な結論を導く。それらは、存在を得ることは常に危害であることを示唆する。その危害は実際に深刻なものであるため、少なくとも一部の見方では、子供を作ることは常に間違いであるということになる(それ以外の見方は、人類絶滅計画の一部として、いくぶんかの生殖を許容する)。
 道徳的厭人主義的議論の結論は、子供を作ることは推定的に間違いであるというものである。この推定は破られることもありうる。私は、人々は実際よりもはるかに頻繁にそれが破られると考えるだろうことと、不可能ではないとしても、実際にその推定がいつ破られるかを知るのは非常に困難であることを議論した。しかし、新たな人間が、その特定の人間がもたらすだろう害を相殺するくらいの十分な善を生み出すという状況が存在する可能性も残ってはいる。
 厭人主義的議論を、博愛主義的議論と合わせて考えれば、生殖に反対する議論は、特に我々の現在の状況においては、ほぼ常に決定的過ぎるほどである。

(c)積極的絶滅主義の難点

 とはいえ、ベネターが主張する段階的絶滅によって苦を除去する方法には実践的な問題がある。ピアースが指摘するように、仮に反生殖主義の実践が行われたとしたら、その者たちは生殖を行わないためにその思想を伝搬する者が減っていく。他方で、反生殖主義者ではない大多数の者は生殖をし続けるはずであるから、子孫を残すことでより多くの影響力を拡大するはずである 。そのようにして反生殖主義者が最終的に淘汰されていってしまうのだ(Pearce 2005)。

 生まれてくる者に配慮するため、もしくはその有害性のために生殖を控えるべきであるとしても、反生殖主義の考えを持つ者が途中でいなくなってしまったらその目的を達成することはできない。ここにおいて、反生殖主義は実践的な困難を抱えていることになる。

4. 品田の本を読んでの率直な感想

 この節では品田の本に対する疑問を提示しよう。この本の書名は『ただしい人類滅亡計画』となっているが、おそらく人間ではない魔王にとっては人類が滅亡することがただしいかどうかなどはどうでもよいのではないか。グレーが言うように道徳的なただしさにこだわる必要はなく、魔王にとってのただしさでよいのである。そう考えると、人類よりも強い生命体が現れてそれが人類を絶滅させただけのように見える。あの本の話は別に反生殖主義を持ち出さなくてもよかったのである。

 むしろ興味深く感じたのはグレーの意見である。あれはおそらく永井均をモデルにしているはずだが、その見解をそのまま言えば魔王は好きなことをするという結論に落ち着くのはそりゃそうだろうという気もする。人間にとっては人類を滅亡することは自分自身にも大きな影響があるが、魔王にとっては人類はいてもいなくても差し支えない存在のため、道徳による縛りは効力をなさない。むしろ、人類よりも強力な存在がやってきたら人類はそれを議論によって説き伏せることで絶滅を食い止めることができるか、という視点で読んだ。私にとっては魔王の存在のせいで、これを単純な道徳の話であるとみることができなかったのである。

 以下の講義で、登場人物の中にグリーンが存在しないことが指摘されていた。私自身はエコロジストないしは動物権利論者としてグリーンを登場させるべきであったように思う。その人が上記の小林の議論(あの議論は環境倫理的視点から展開されている)やmisanthropicの議論を展開すれば、より議論が面白くなったのではないか。

5. 結論

 以上、長々と述べてきたが、全体としては優れた本であると評することができる。この本によって反出生主義が多くの者に認知されるようになるだろう。それが非研究者によって達成されたということは、反出生主義というものが極めて人の関心を集めやすいことを示す証左である。

<参考文献>

Benatar, David (2006) Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence, Oxford: Clarendon Press.

————- (2015) “The Misanthropic Argument for Anti-natalism”, In Permissible Progeny? The morality of Procreation and Parenting, edited by S. Hannan, S. Brennan, and R. Vernon. Oxford: Oxford University Press.

Pearce, D. (2005) “THE PINPRICK ARGUMENT”, https://www.utilitarianism.com/pinprick-argument.html (最終閲覧日 2021年8月30日).

小林和之(1999)「未来は値するか ― 滅亡へのストラテジー」井上達夫・嶋津格・松浦好治編『法の臨界[III] 法実践への提言』東京大学出版会。

榊原清玄(2021)「反生殖主義とは何か その定義と内容に関する論点整理」『人文×社会』、第二号、35-51頁。

品田遊(2021)『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』イースト・プレス。

森岡正博(2021)「反出生主義とは何か その定義とカテゴリー」『現代生命哲学研究』、第10 号、39-67 頁。

The Real Argument(2019)「ベネターの厭人主義的アンチナタリズム」http://therealarg.blogspot.com/2019/11/Misanthropic-Argument-for-Anti-natalism.html (最終閲覧日 2021年9月10日)

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