話し合い

「話し合って決める」というのは、お花畑的幻想です。「話し合えば、相手も自分の意見と同じになるはず」などと思うのは、傲慢です。

話し合って決まるのは、「今回はどっちが意見を放棄しましょうか?」ということだけなのだから、順番に譲り合ってもいいし、多数決で決めてもいい。決める人が責任を負う、ということでもいいと思います。

「話し合って決める」という幻想を押しつけることは、「多様性の否定」につながります。「ひとつの意見だけが正しく、後は間違っている」と考えるのは恐ろしいことです。

その理由は、「議論する意味がないから」です。

いったい「議論する意味」はどこにあるのでしょう? 合意すること? 意見をまと めること?

世の中のすべての人の意見が「一致する」などということは起こりえません。いくら 話し合い、議論しても、結果としてみんなの意見が一致した、などということは、ほ ぼないんです。

起こりうるのは「一部の人に、自分の意見を放棄させる」ということだけです。話し 合って合意に達したように見える状況を思い浮かべて下さい。

そこで起こったことは、「議論を通して、全員が同じことを信じるようになった」と いうことではありません。一部の人が「まあいいや、お前の判断に従おう」と考えた から合意に至ったのです。「今回はそっちの方法でやってみようと思った」というだ けです。

一緒に会社を経営しているとか、夫婦が子供にお受験をさせるかどうかを決めると か、「合意に達する必要がある時」はよくあります。そういう時は、皆、議論をしま す。

こういった議論の目的は「話し合っている人達の意見を同じにする」ことではなく、 「どちらかに、自分の意見を放棄させる」ことです。

「話し合って決める」ということは、そういうことなんです。

議論したら、心からわかり合え、みんなが同じことを信じるようになる、なんてのは 幻想です。

だから民主主義というのは、最後は「多数決」なのです。いろんな意見をみんながバ ラバラに主張し、最後にどうするかは選挙で決めます。「数が少ない人が自分の意見 を通すことを諦める」というルールが民主主義です。

ただし、知識と思考は違います。知識は、どちらかが完全に思い違いをしている可能 性があるので、正しい知識が目の前に運ばれれば、双方の意見は一致するでしょう。 私が上で言っているのは、知識ではなく思考の話です。人の「考え」は、少々議論し たくらいで同じになったりはしないのです。

ちきりんはよく「多様性を尊重すること」の重要性を書いています。それはまさに 「話し合って、議論して、誰かの意見を放棄させる必要はない」という意味です。

時々、「多様性を尊重すると言っているのに、なぜ議論に応じないのか?」と言われ ますが、反対です。多様性を尊重したいからこそ、議論しないのです。議論して、 どっちかがどっちかを説得するなんて無意味でしょ? せっかく二つの異なる意見が あるのに、なんでわざわざ時間を掛けて「ひとつの意見」だけにしてしまう必要があ るんでしょう?


「話し合って決める」という幻想 - Chikirinの日記

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