キノコな彼女
鼻から空気を吸ってみたら、紙のにおいがした。
本屋にいるのだった。
きっと長い間このにおいに包まれていただろうに、まさかはじめて息をしたのか。
なにか悪さでもした後のように、わたしはそっと本を棚に戻して辺りをきょろきょろ見回した。
入ってきたときには、となりに姉がいたはずだった。
わたしを見下ろすようにそびえ立つ本棚たちの間を、ひとつひとつ覗いてみる。
気がつくとわくわくしていた、子どものころみたいに。
一体おねえちゃんはどこにいるんだろう。
これが彼なら、きっとコミックコーナーにいる。
週刊か月刊の分厚い本に載っているような少年漫画の背表紙を、意味もなく眺めているはずだ。
「ねえ」と言ってもこちらを向かず、「終わった?」とそっけなく訊くだろう。
これが彼女なら、きっと雑誌コーナーにいる。
暖かくなったけど花粉がなあ、なんて表情で「春のおでかけお弁当特集」のページを熱心にみているはずだ。
「どう?」と話しかけたら大袈裟に驚いて、「ね、ピクニックしたいよね」と顔を近づけてくるだろう。
これが弟なら、店前のワゴン内100円均一のコーナーにいる。
タイトルに「ゲーム」という言葉の入った本を、手に取っては戻して退屈そうにしているはずだ。
「ずっとそこにいたの?」と笑ったら、「まだ?」とだるそうに靴紐を結び直すだろう。
でもいま探しているのはおねえちゃんだ。
おねえちゃんはそう簡単には見つからない。
コミックコーナーで所在無さげにしているときもあれば、雑誌コーナーで音楽情報をみているときもある。
ワゴン内の歴史書に興味を示すときもあれば、新書コーナーを細かくチェックしているときもある。
一体おねえちゃんはどこにいるんだろう。
みぎ、ひだり、とゆっくり進んでいく。あれ、いないのかな、と、不安になるくらい奥のほうの古書売り場―なつかしい記憶の中でよく嗅いだ、勉強机のにおいがする―に、キノコのような髪型の小柄な女性が立っていた。
まるでわたしがたどり着くのを待っていたかのようにこっちを向いている。
にやけている。
傍からはどう見ても真顔で突っ立っているが、わたしの目にはからだ全体がにやけているように見えるその女性は、わたしのおねえちゃんなんだろう。
近寄ると、あらためて―そして丁寧に―にやけながら「カレー食べよう」と言った。
なぜだか、言葉が出てこなかった。
いっしゅん目尻が湿る気配がして、わたしは慌ててまばたきをした。
すうっと鼻から息を吸って、隣のおねえちゃんを覗き見る。
「けっこう可愛いね、髪」
口に出した瞬間、気のせいかと思うほど弱くやさしい風が、わたしと姉のあいだを通り抜けていった。
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