ある芸人が好きだ
若林正恭さんという芸人が好きだ。
最初は僕の同世代の人たちと同じく、M-1グランプリ2008でオードリーというコンビを知った。
関西人なので、と言うと変な反発もありそうだけど、身近にお笑いがある。当然のようにお笑い番組を見て、当然のようにゲラゲラと笑っていた。
いわゆる「ズレ漫才」という発明を、「今までのものとはなんとなく違うなあ」と感じたところはあった。
最初は、春日に振り回されている人、だった。
当然のごとくというか、当時の僕にはかなりのハードルだったのだけれど、オードリーのラジオを聞くようになった。当時は今ほど毎回聴いていたわけではないが。
深夜ラジオを、初めて聴いた。
少しだけ、前の記事で言及したが、若林正恭という人は、その時の感情、考えを素直に伝えてくれる。
キャラクターや立ち位置がより重要な世界に身を置きながら。
一般人レベルでの話だが、僕は、キャラクターや立ち位置ばかり気にしてしまう。
自分は自分だ、なんて、口が裂けても言えなかった。
全体最適を考えて、自分を殺す。それが役目だと思っていたし、実際上手くいく。
縛られる。コンプレックスではあるのに、自ら縛る。
他人のせいだちくしょう、と、文句を垂れる。
初めは、ラジオは、テレビでするようなトークを、音声のみで流すようなものだと思っていた。深夜ならそれに、下ネタやらが許容される、ぐらいで。
あとはコーナーがあるらしい、ぐらいで。
するとどうだろう。テレビでの苦労、それまでの苦悩や葛藤、納得いかない事、面白い出来事。
若林さんは、何でもかんでも、赤裸々に、語ってくれた。
愛を込めてくん付けさせてもらおう。若林くんは、本当は暴れる側の人間だと思うし、春日さんになりたい人だと思う。
いわゆるヤバい人の方は、若林くんだろう。
春日さんはまた別ベクトルでヤバい面もあるけれど。
漫才では、ヤベー所を春日さんに委ねている。
マグロを、漬けている。
春日さんを、若林くんがハマっている漬けマグロ作りと表現したのは笑った。
若林くんも、春日さんも、最初のブレイクからは、立ち位置やキャラクターが変わっているだろう。
それを含めた、これからの漫才を見てみたい。
たりないふたりの変化だって、僕の心を震わせてくれた。
ふたりのたりない人間が、変化して、変化を受け入れて。たりないところが減ってきたと思ったら新たなたりないが見つかって。
めちゃくちゃ困惑して、めちゃくちゃ本気で悩んでぶつかって、それでも進んでいく。
当然、明日のたりないふたりを見て、号泣した。これまでの覚悟とこれからの覚悟。たりないふたりを解散するという覚悟とその意味。
漫才上で表現してくれた所以外は、想像しかできないけれど。
変わらない所と、変わった所。変えていない所と、変えられていない所。変えた所と、変わってしまった所。
それを、漫才という形で、エンターテイメントに乗せて、ふたりが全力で「ぶん殴り合っていた」あの光景は。
本当に、一生、焼きついたままだと思う。
第二次?第三次?オードリーブームだと言われている。らしい。
相変わらずテレビ出演本数で上位にいる。
勝手に、嬉しいと思っている。
あちこちオードリーという番組が、好きだ。
ゲストを1〜2組呼んで、ひたすらトークする。アンケートも台本も無いらしい。
人それぞれの本音が、リアルが、引き出されている。と、思う。
もちろん、ゲストからそれを引き出しているのは若林くんだ。
本気で他人から学ぼうとして、本気で面白がって、本気で楽しんで、話を聞く。
きちんと、バラエティという形をとりながら。
星野源さんが、若林くんを、日本のテレビ界の希望だ、と言っていた。(どうも希望でーす!)
ファンは同じことを思っているんじゃないか、なんて思ってしまう。星野源さんとは、違う理由だろう。テレビの中のことはよくわからないから。
でも、何となく、考えて、足掻いているのかな、と、本人は望んでいないかもしれないけれど、自分を重ねてみたりする。
もちろん違う人間だし、「どこかは自分と似たような人」だとか形容する事さえも「違う」のだろう。
一方的でいい。
こんなところに書いてしまうことも、「違う」かもしれない。けれど、これは、僕の意思で意地だ。表現で現象だ。
テレビに出てる人でも捻くれてる人もいるんだ、ぐらいの認識で、一方的な共感で、追い始めた人。
偶然とか必然とかでは、言い表せない。
ラジオも、本も、(特に最近の)テレビも、全部、僕(たち)への、愛だ。
片想いじゃない。
そうやって、幸せに浸る。
捻くれているせいにしながら。
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