なんで。
【閲覧ありがとうございます】
こんにちは。
巴四季(ともしき)改め、パースツィです。
noteを始めた時以来の更新です。と言ってもnoteフォロワーもいないし、おそらくTwitterを通して見に来てくださってる方も一部だと思います。
自分に期待はしたいけど、現状を見る限り期待ができないし、自信もない。ただ、一度自分の考えを整理して冷静になりたくなったので、久しぶりに長いテキストを書いてみようと思って。
もし、わざわざ見に来てくださった方がいらしたのだとしたら、精一杯の感謝を。拙い内容になると思いますが、良ければ眺めていってください。
【一枚一枚に全力、なのに】
前回あれだけ奮起していながら、あれから数枚の絵の更新をしたのちに、一切絵をTwitterにアップできなくなりました。
モチベーションが死にました。
常にアップしている作品は、一枚一枚、持ち得た経験を生かして描いているつもりです。
自分としても、色んな経験を経て得た知識を作品に使っていくのが楽しいし、出来上がった作品も過去の作品と並べては成長を感じています。
先日、創作キャラが出来上がって一年の記念日を迎えたので、自分用に作品をまとめたもの。
この一年で自分の絵柄がどれだけ変わったのかを振り返るきっかけになりました。
初めての誕生日、おめでとう…!
特に今では、絵の上達に関する動画もYouTubeで手軽に見れるので、実行に移しやすくなった時代になったのだと感じます。
「楽しいと思って描き続けることができれば結果は後からついてくる」とまで言われているくらいですから、私も自分なりに楽しく描くための術を色々試してきたつもりです。
個人的に私に当てはまりすぎて胸が苦しくなった動画。結果を出したい、周りと比較してしまう、努力に精神をすり減らしてしまう…私がいつも心の中で感じている悩みの解決を提示している動画で、今でも繰り返し見ています。
おかげで、絵を描き始めるまでのハードルが低くなったように感じるようにはなりました。
同じサークルで私と違って成果を出されてる先輩も、自分の好きなものを描き続けた結果ここまでレベルを上げられたとおっしゃってました。
私だって、自分の好きを追求して今まで絵を描き続けてきたつもりです。現に、「私の絵柄はこのようにしたい!」という理想像は持っています。
それでも、描けなくなってしまった。こんなにも絵が好きなのに。「楽しい」って思えたのに。
その理由は頑張って描き上げた自分の作品の出来を周りに共有しようとした先にありました。
【私は、いいと思えているのに】
私は何かを描くたびに、その作品の価値の確認をするかのように、周りに共有したくなる気持ちに駆られてしまうのです。
それこそ幼少期とか、小中学生の時に自作の漫画を描いては友達が楽しみに見にきてくれたり。
やがて私の作品を中心に、見てくれる人が増えてもっともっと描きたくなって。
いじめに遭っても、イジられても、見てくれた人がいたから、それでも楽しく描き続けられた。
…今ここに書いていて、そういえばそれが嬉しくて絵を描けてこられていたのだと思えました。
懐かしい気分になったので引っ張り出してきた。痛々しさがいい味を出していて面白いです。
当時親の反対を押し切ったおかげで、今こうして保管できてます。あの頃の私が詰まってます。
余談ですが、当時作っていた自作のカードゲームでの最強の武器は「伝説の剣」でも「死神の鎌」でもなく、「自由帳の山」でした。一緒に遊んでいた友達や先生が納得してくれて嬉しかったのを今も覚えています。本当に、支えられていたな…
じゃあ、今はどうなのか。答えが今の現状です。
どんどん、見てもらえなくなりました。
…いや、見てはいるのかもしれない。「良い」とは思われていないだけで。
中にはありがたいことに、周りに私の作品を共有してくださる方もいらっしゃいます。私としてもすごく嬉しいですし、励みになります。
ただ、そんな支えてくださる身内の向こう側には一切見向きがされないことが増えてきて。
共有のタイミングで感想をくださっていた身内もそんな状況から周りの反応を察したのか私の励みになってた感想も今ではくださらなくなって。
以前まではそれなりに見てもらえていたし励みになるようなお言葉も頂けてはいました。その影響もあって、今までは描けてこられたのです。
もちろん、共有してもらえるくらいの魅力的な絵が描けない私にしか非はないとは承知してます。
現に、見てもらえていない最近の絵を描いていた時は今のようにかなり心が死んでいましたし。
自分では気に入っているのに、周りのほんの少しの変化で自分の作品の価値を取っ払ってしまう。
描いている過程も描き上がった作品も、自分では最高と思っていたものが、周囲の反応という基準一つで、報われたものか、無意味だったものかという二択に分類されてしまうのです。
つまり自己満足で終わらせたくないのです。一応デザインも勉強している人間として。
実際私が漫画を描くことをやめてしまったのも、ずっと読んでくださった高校の先輩が卒業して、見てくれる人が誰一人いなくなってしまったことがきっかけでした。
周りの反応数で自分の作品の価値を決めてしまう人の心理はこういう経験から来ているのかも、とまで思えてきてしまいます。実際には少し違うと思いますが…それでも、反応があると嬉しいことに変わりはないと思います。
あの頃から私、全然変わってないみたいです。
いい意味でも、悪い意味でも。
そんな実力以外でどうにもならないようなことに振り回されて落ち込んでしまう自分に、ただただ悔しい気持ちが湧いてきてしまいます。
【周りは成果を出しているのに】
絵描きにとって有益な情報が出回ると何が起こるのかというと、その情報を活用しては結果を出し続ける絵描きが増えていきます。
長い期間をかけて着実に成長する絵描きもいれば短期間で一気に有名になっていく絵描きも最近は増えてきている印象です。
そのように結果を出している絵描きは、当然ではありますが、知れ渡ったきっかけとなる「成果」があることがほとんどだと思っています。
有名になっている人を見ると大体「〇〇の人」で認識していることが多いと感じます。そして大体はその代表作も、いわゆる「バズった」状態からスタートして、その人気に応えるように創作活動を続けて有名になっていく…そんな気がします。
実際に、私と同い年のプロが公開していた配信を聞いていたら、その人が「作品を作ったら依頼が来た。それが新しい依頼を呼んだ。結果的にプロになった。」と言っていました。
私と同じ時間だけ生きていても、早いうちに得た成果一つで、ここまでクリエイターとしての差ができてしまうのかと、私はひたすら悔しくて。
モチベーションを保てて、上達できて、描き続けられるのが「求められているから」という理由なわけですから、私はもう求められなくなった自分が、どうせ描いても見てくれる人はいないと勝手に決めつけて作品を描けない自分が、ひたすらに悔しくて。
私が何か周りに知れ渡るような成果を上げられたのかというと、今の私の現状が答えになっていると思います。
おそらく高校生あたりにネットを始めて絵を描き始めて
現在に至るまで、何一つとして、何も。
周りが着実に私と同年代か下くらいに既に成果を出して
いる中、私は何一つとして、何も。
だからといっていわゆる「遅咲き」を目指すのも自分の現状に甘えている気がして、心の中で許すことができなくて。
結果的に、焦りと競争心を持ち合わせた、成果も上げられない絵描きになったのだと思います。
それでも、こんな自分に対して「悔しい」という気持ちが湧き上がっているだけ、まだ希望を捨てきれてないのかもと思えてはいるのですが…
【成果を上げられたのかもしれないのに】
今ではチャンネル登録者は50万人を突破、書籍を出すことも決まった、まさに成功者としての道を歩んでいる「なつめさんち」に作品を取り上げてもらったことは成果に入らないのかと自分で考察してみました。結果的に、私が有名になることもなかったですし。
嬉しいことに、再生回数が50万回を突破していて「50万回も私の絵が見られたのか…」と数に圧倒されています…が、ここで私は気付きました。
動画が投稿されて、はや1年。
結局、「私」が注目されることはなかったと。
当然と言えば当然なのですが、元々動画の雰囲気や企画の段階で、絵描きとしての視野を広げたいと思っている層よりも、単に面白くて見ている層が大半を占めているように思えてきて。
アプローチをかけるところが間違っていたのかもしれないと今になって気がつきました。
プロの絵師を名乗っているくらいのお二人ですしきっと絵描きとしての成果も出されているような方々でしょうから、視聴者の注目もきっと向こうに集まっているはず。実際、動画の中での私の絵の見劣りといったらなかなかのものでした。
つまり、結局のところ「プロ絵師」作品の踏み台止まりになってしまったのです。結果的に。
そのまま私の将来に繋がることもないまま1年が経ってしまいました。絵の道へと進むことを心に決めたはいいものの、花開くこともなく。
【それでも描きたい、のに】
ここまで自分の現状を綴ってきましたが、結局は過去のことです。今後頑張ればいい話…と思う方もいらっしゃると思います。長い目、でゆっくりと歩めば、いずれ結果がついてくるだろうと。
その通りです。私だって描きたいのです。
実際、軽くではありますが一人で描いてます。
それでも、急に見てくれる人がいなくなった経験をして、どうしても先に進めなくなってしまった私がいるのです。自信に満ち溢れ、誰よりも自分の作品を愛し、長い時間をかけてキャラクターと向き合い、自分のベストを尽くした…そんな作品が目の前で不発に終わった時の衝撃は今となってはもはやトラウマです。自分の「好き」の追求をした作品だっただけにショックでした。
自分の「好き」が否定されている気がして。
この作品以来、以前のように全力で絵を描くことができないまま現在に至ります。真剣に取り組みはするけれど、心のどこかでは不発を恐れている自分がいて、成果が出なかった時のための言い訳ができる逃げ道をついつい作ってしまう。
劣勢ならばあとは攻めるだけ!という気持ちで次の作品に取り組んでも、成果の出せない自分の絵にじわじわと現実を思い知らされるのではないかと思うと怖くて、作品を増やせなくて。
それでも成果を得るためにはとにかく描かないと始まらない。若いうちなら特に。
大学で受けている絵画授業でお世話になっている先生に将来の相談をした時も「描き続けることが大事」とまで言われたくらいです。
過去の経験がトラウマで描き出せないと伝えたら「強い心を持つことが課題かも」とのアドバイスを頂くことができたのはよかったです。
強い心。
二度と繰り返したくない経験を恐れて、一向に前に進めない。そんな自分に抱いてる悔しい気持ちを乗り越えられる強い心。
作品を上げることがなければ成果を得られない。そんな中、着々とレベルを上げていく周囲に対し抱く悔しい気持ちを力に変える強い心。
最近気がついたのですが、「悔しい」という言葉に私、本当に弱いんです。気持ちさえあれば相手は自分でも周囲でもいい。マイナス的な意味合いを持ちながらどこか自分の向上心を捨てきれないニュアンスが含まれているような気がして。
つまりは、そんな悔しさや失敗を乗り越えられるような強い心を持つことが私の課題なのかも。
…いや、それならいっそこの悔しさを楽しむのも、モチベーションを高められる手段としてあるかもしれない。難しいとは思うけれど。
経験値を重ねて周回して、簡単に成果が得られるゲームとは違う。同じ「悔しい」という気持ちができても、やり直しがきくゲームと、一度きりの人生では、失敗の「重さ」言い換えれば、失敗の「価値」が違う。
若いうちに成果を上げている人が成功しているのならば、その数倍今のうちに失敗して、ひたすら自分の可能性を信じ続けていくことが、今の私にできることなのかもしれないです。
むしろ逆に、最短で成功に直結するような成果を出して大物になることよりも、失敗から得られる経験を得るほうが何倍も価値あるものかもとまで思えてきます。
自分の絵柄が「表現したくないもの」をまとめるうちに定まっていくように、作品を世に出すことができれば、その駄作の数だけ「これは受けないもの」だと身をもって確認できるいい経験になるのかもしれないですね。
あとは、自分が愛でに愛でて仕上げた作品が周りに受けなかったとしても、モチベーションに支障をきたすことなく、次の作品に生かす経験として素直に受け入れられるような強い心を持つだけ。
それこそ、作品を描き続けて打たれ強くなるしかないのでしょうか。自分を信じた、たった一回の不発で自信を喪失したのを思い返すと、ただの単なる「失敗の経験不足」と考え直せば、少しだけ前に進んでみようとする気持ちになれなくはないと思います。堕落してやるゲームより全然良い。
【こんな気持ちに溢れているのに】
悩みと気持ちを発散させるつもりが、気づいたらちょっと頑張れそうな気持ちになれた。
また、書いていくうちに自分で自分の悩みが解決できてしまいました。note、すごい…
5000字を超えて、達成感に浸っています。目標にしているわけではなかったけれど。
成功している人も、こんな風に「気づいたら達成できた」的な軽い気持ちで、成功を喜んでいたりするのかな。きっと数こなして描いていかないと分からないのでしょうね。頑張らなければ。
あとは行動に移すのみ。立ち止まっていればそれまで。最後に成功しちゃえば、失敗も不発も所詮は笑い話。乗り越えた分だけきっとクリエイター人生は豊かになるし、いち人間としての人生も、きっと面白くなるんじゃないかな…。
何をやっても上手くいくような早咲き成功者とは違う、私なりのハードモードな人生の中で本当の意味で成長できたほうが、絶対に面白い。
また壁に当たったと感じてしまった時は、色々と綴りに戻って来ようと思います。Twitterで長文のツイートをしててもやっぱり仕方ないみたい。
ここまで読んでくだった方がいましたら、本当にありがとうございました。
この先味わう最高に厳しくて楽しい経験が、私の絵描きとしての人生を、精一杯豊かにしてくれることを信じて。
まずは悔いのないよう、今を全力で過ごしたいと思います。
今後を考えて、絵描き仲間も増やしたいな。
…漫画と一緒に別れを告げた先輩、元気かな。
《パースツィ/巴四季》
小学生の頃にずっと描いたキャラ、大人になった今描いても手が覚えてて、少しうるっときた。
6024文字
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