動物嫌いと差別

「自分は動物が苦手だから、自分の身の回りに動物はあんまりいないでほしい。」

という趣旨のことを話したら、

・人間のエゴ

・人間中心主義

だとかっていうレッテル貼りをされた。

色々思うことがあったが、まず個人のプライベートな趣味嗜好を論じるツールとして、上記2つは大きすぎる議論だと思った。

プライベートな範囲で誰にも迷惑をかけないことに、人間とか人類とか地球とか普遍的で大きな話を持ち込んで、説得しようとするのはファシズムやスターリニズムの手法と同じだと思うので特に気にしない。

次に、これまで関心が薄かった性的マイノリティの人の気持ちが少しわかった。

誰を好きになるか、何を好きになるか、という最も個人的なことを他者によって制限されたり、バカにされることがどれだけ嫌なことなのか、が身にしみてよくわかった

朝井リョウの「正欲」という小説を最近読んで、その中から気になった一節を書く。(多少要約している)

社会は人を放っておいてはくれない。個人の秘密まで隅々の情報をジャッジして人を判断しようとする。しかし、逆説的ではあるが人から放っておかれたいのであれば社会に所属するしかない。社会の一員になれば他人からの詮索はたかが知れるレベルにもなるし、また、他者からの詮索にどう答えれば自分の秘密を明かすことなく生きれるのかもわかってくる。その手っ取り早い方法は、欲望を他者に合わせることである。自分の欲望が他者と同じであることを確認できれば、他者は自分を社会の一員だと認めてくれやすいのだ。

つまり、人と違う欲望を持っているから放っておかれたいのに、人から放っておかれるためには、人と同じ欲望を共有することが最も手っ取り早い

例えばパートナーシップ制度など、公的な制度を求めて、むしろ「放っておくな」というメッセージがタイムラインを踊っているが、彼ら・彼女らもおそらく「当たり前」として放っておかれることを目指して、今だけは「放っておくな」という矛盾したメッセージを「敢えて」出しているのではないかと思ってきた。

目立ちたくないから敢えて目立つ、とか、差別されたくないから敢えて差別される、とかは自分がよく読んでいるアガンベンの議論にも通ずる。

例えば、奴隷は罪を犯すことで初めて市民として司法へのアクセス権を得る。死ぬ直前に初めて人間になれるという「弱者の強者性」が彼が言いたいことである。

人間は差別されたくなければ差別されるしかないという矛盾にぶつかった時に「敢えて差別されてやろう」という(謎の)主体性や強さを発揮する。実は人間、そういう矛盾があったほうがその矛盾をひっくり返すための強い意志を手に入れられ、逆に矛盾が解消されてしまえばすぐにでも強い意志を失う、という言い方もできる。

自分は建前として動物が好きな人間として放っておかれたいのか、敢えて動物嫌いな冷たい人間として、そういう人間にしかわからない感性や価値観を磨いていくのか、アガンベンから重要なメッセージを受け取った気がした。

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