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『ドライブ•マイ•カー』 シンクロ祭りの件

 『ドライブ・マイ・カー』は映画も本もシンクロ祭りでした。
少し時間たって鮮度が落ちてしまったかもですが、
『ドライブ•マイ•カー』が映画の賞を獲ったのをニュースで見て、久しぶりに『女のいない男たち』を再読する事にしました。

『女のいない男たち』はめずらしくまえがきから始まります。
まえがきを読んだ時に、『あ!』っと思い出しました。
自分と関連している気配を感じ、急いで『女のいない男たち』から読み始め、最初に読んだ当時、この話が自分とシンクロしていた事を思い出しました。
 
『ドライブ・マイ・カー』は『女のいない男たち』という短編集の
6作品の中の1作目です。『女のいない男たち』は本のタイトルになっているストーリーで6作目になります。

そこに出てくる女性『エム』、話はその女性が亡くなった知らせを受けるところから始まります。その女性が自分とシンクロしました。なぜその女性と自分とシンクロしているのかというと、私自身かつて解離した人格が消滅したといういきさつがあり、その人格がまさに『エム』という名前を持っていて、ちょうどこの短編集の初読のタイミングで消滅したので、当時それが弔いのように感じたというのを思い出しました。
 
盛大にシンクロした話を書きあげた時に、それを書いている自分が解離した人格なのかオリジナルの自分なのかわからないような感覚がありました。
当時を思い返して書く事で、その当時の人格が出てきている感覚で、消滅したはずの自分が書き上げた事で、それが節目となり、今、人生が大きく変化していっている気がしています。
 
映画を観に行こうと思いたった時は、まだ再読中の文庫本を行きの電車の中でも読みながら、映画館に開始時間ぎりぎりですべりこみました。
電車の中で読んでいたのは『シェエラザード』で、学校を半日休んで、男の子の家に入り込むあたりまで読んでいました。
映画は『シェエラザード』の物語を語るところから始まりました。
「あれれ??」一瞬にして既視感につつまれました。
すぐには何が起こっているのかわかりませんでしたが、さっきまで読んでいた話だと気づいた時には、映画を観ながら『ひょえ~!!』とか『どひゃ~!!』と心の中でまわりに聞こえるような大声出してる気分でした(笑)
 
映画でのシンクロ、本でのシンクロ、
もろもろのシンクロは、身近な人にしか話せない事が多いですが、
映画でのシンクロもすごいタイミングでした。

『女のいない男たち』初読時、消滅した自分への弔いだと思えた時に、
肉体を持たない自分が静かにこの世界から退場して行った事を少なくとも神さまは知っていて、死者へのセレモニーの代わりにこのストーリーをごく個人的にささやかに与えてくれたのだと思っていました。
シンクロが起こるときはよく『私のために書かれている』と思わされますが、この心境がシンクロの旨味で、ごく個人的な楽しみであり喜びでもあります。
今回読み返す事で、その時そう感じた事を思い出しました。
 
 映画を観る2か月前に、自分のシンクロストーリーを書き上げた事は、
なんというか、自分の中から物語を外に出す事で、自分の軸が変わった感覚がありました。シフトチェンジしたというのにも近いかもしれません。
人生の予定外な変更も起こった中で、映画『ドライブ・マイ・カー』はタイミング的に大きなポイントになりました。
急な変更とは、引っ越しの引っ越し先が急に変更になったのですが、そのキーワードがまさに『ドライブ・マイ・カー』でした。
他にもシンクロがあり、引っ越し先の急な変更を背中を押してくれた感じでした。

映画を観た頃は引っ越し準備の最中で、合間に『女のいない…』の中の『木野』を読みながら出かけるたびに雨、雨、雨、引っ越しも雨、、、
そして、引っ越し先は縁もゆかりもないところ、、、
まさに、木野がカミタに『次の長い雨が降り出す前にここを出ていった方がいい』と言われ出て行っ気分でした。まだ梅雨でもないのに、やたら雨で、本文で雨が降るたびに現実でも雨、、、(泣)
でも次の長い雨とは梅雨を指していると思うので、そこは梅雨前の引っ越し完了という事では軽めのシンクロになったのかなと。
それから引っ越しして荷物の整理をしていると、気分は遺品整理です(笑)
ほぼオリジナルの自分が買ったものはなく、すべて代理格で生きてきた自分の荷物なので…。
 
こういった一連の出来事を振り返ってシンクロを考えてみると、もうひとりの自分の退場から、オリジナルの自分が自分の人生を生きるため、自分が自分の身体になじむために、もとの自分が考えていた引っ越しではなく、新しい場所で、知り合いのいない場所で、人生を再スタートさせているのかなとは思ったりしています。

ドライブ・マイ・カーの中で、みさきのお母さんが解離するキャラになっていました。
その設定はちょっと興味深かったです。
私の場合、解離ではなくウォーク・イン・ソウルらしいので少し違いますが、人格に別キャラがいるというのは共感できる部分があります。
 
最後にドライブ・マイ・カーの感想です。
村上春樹の作品は映像化されにくいのかなとは思っていました。
ノルウェイの森を観た時は『そうじゃない感』が強く、ちょっと残念に思ったりしていました。
そういう意味では、『ドライブ・マイ・カー』にも期待してなかったのですが、原作をいい意味で越えた作品だと思いました。
ストーリーに『女のいない男たち』の中から、いくつかの作品がちりばめられていて、その手があったのかと感心したり、チェーホフの朗読がこれほど響くというのが素晴らしいと思いました。
チェーホフを読んでないのが惜しいほど、その奥行きに感銘を受けました。その奥行は原作の深みであり、映画が原作の深みを表現しつつ、原作を越えた物語が作りこまれ、本来の物語にはない筋書きであれ、付け足された部分であれ、そこにいやな感じがしないのがすごい映画だと思いました。
原作へのリスペクトがあふれ、決して原作を足場にしているような作品ではないからかもしれません。

強いて気になったのは、妻が語っていたストーリーの結末を、妻と寝ていた男が話す場面の事です。その迫力は圧巻だったと思いますが、そこは原作のニュアンス、というかある意味本筋からは離れる気がしました。ただそれもありかと思える、鬼気迫る演技が際立つシーンだと思いました。

私は、この部分は原作では肝の部分なのではないかと思っています。
この間男について、家福はみさきに語ります。
「でも、はっきり言ってたいしたやつじゃないんだ…」
それなのに妻はその男と寝ていた。
その事が棘となって家福の心に刺さり続けます。

原作から考えると、映画での間男は家福の知らない事を知っている、
家福以上の部分を持っているという意味で、本筋のニュアンスは変わってしまうのかなという気はしました。
ただそこが残念というよりも、それ以上にあのシーンは圧巻だったし、シェエラザードの結末としても、面白いと思いました。

そういう意味では、原作に忠実でもないにかかわらず上質なストーリーを組み立てているあたりは、監督か脚本家が村上春樹のファンなのではないかなと思いました。
何度も観たくなるような作品で、評価された事も納得できる映画でした。
ただ、賞を獲って話題性はあったものの、思ったより大衆受けする作品ではなかったような気がするのでそこは残念なところですが、深みがある作品なので、時間をかけて評価されるといいのかなとは思います。私にとってはタイミング的にも最高のプレゼントになりました。
 
ありがたし。

 
 
 
 
 
 
 
 

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