日記 5/10(日)

 今日は忘れないうちに早めに日記を書く。
 昨日今日は天気があまりよくない。ベランダに出ると風が強いと感じたので髪を切る予約を入れた。
 午後にNETFLIXで『ハーフ・オブ・イット 面白いのはここから』を見る。最近色んな所でレビューを見掛ける。概ね以下のような内容だ。
 舞台はアメリカの田舎町スクアヘミシュ。父と暮らす高校生エリー・チュウは持ち前の明晰な頭脳を活かし、クラスメイトのレポート代筆で小銭を稼いでいた。評判を聞き付け、ある男子生徒が依頼を持ち込む。名前はポール・マンスキー。老舗食堂を営む大家族に四男として生まれたアメフト部の二軍所属で、賢くはないが素朴な青年だ。ポールがエリーに持ち込んだのは同級生である美少女アスターへの、ラブレターの代筆依頼だった。エリーは金欠から依頼を引き受けるが、代筆の手紙を通してアスターへの思いを募らせていく……。
 この作品は、繰り返し「愛とは何か?」という問いを重ねてくる。冒頭ではそのトリガーとして、古代ギリシャ神話のあるエピソードが引用される。
 本来、人は頭をふたつ、手足を四本ずつ持っていたが、あまりの完璧さを恐れた神(映画では述べられないが確かゼウスだったと思う)によって引き裂かれてしまう。だから人間は自らの片割れを求めこの世界を彷徨い、完璧な存在となることを志向する……というものだ。
 この片割れを探す旅の結末は、しばしば運命(運命的な出会い、運命的な悲劇、運命的な愛……)に喩えられる。しかし実生活では、この旅の結末が最善のものであることも完璧であることも多くはない。自身の満足によって、運命的なものであると錯覚しているに過ぎない場合もある。だから他の愛に超越されるし、欺瞞が生じることがある。この映画では、そのような愛の不完全性に触れられている。
 自身の求める片割れのために「愛とは何か?」という問いの答えを、登場人物たちは間違え続ける。愛とは、相手を知るために努力することかもしれないし、献身かもしれない。身勝手なものであり、やはり欺瞞に満ちたものかもしれない。その過程を経て、やがて理解者に出会う。その理解者との間に投影されるのは「愛とは何か?」という問いにフィルタリングされた、自分自身である。また愛の対象となる他者は、自らの観測範囲にしか存在しない。ここには欲望とか愛とかの暴力性が滲んでいるかもしれない。
 2017年に『君の名前で僕を呼んで』という映画が公開されていた。これが面白かった人は『ハーフ・オブ・イット 面白いのはここから』も楽しめると思う。

以上

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