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【小説感想&紹介】家守奇譚

好きな作家は、と聞かれたら梨木香歩さんと即答できる。
私が心から敬愛する作家様。
とても思慮深い方だと思う。
文章の美しさ、表現の繊細さ。何より物語の面白さ。

物語でも、エッセイでも本当に書くことに真摯に、誠実に向き合っていると伝わってくる文章だ。

言葉は時代によって変化し、意味すらも変わったり、消えてしまうことだってある。
それでも、この方の作品では、純粋な言葉の美しさを味わうことができる。
作品によっては文章が少し読みにくいと感じる方もいるかもしれない。それでも少し読み進んでみてほしい。
きっと梨木ワールドに魅せられることでしょう。

できるなら、時間に追われない時に先を急がずゆっくりと読んでほしい。

家守奇譚いえもりきたん
冬虫夏草とうちゅうかそう
作品としては、家守奇譚、その続編が冬虫夏草。
単行本と文庫本の装丁がそれぞれ素敵すぎて両方買ってしまった。
もう何年も、何度も読み返している大好きな作品。
不思議なタイトルそのままに、物語のそこかしこに不思議が散りばめられている。
※作中にも出てくる主人公の友人村田については別タイトルの小説(村田エフェンディ滞土録)があり、こちらもいずれ紹介したいと思う。

今回は家守綺譚について語りたい。

舞台は今より百年ほど前の日本。
売れない文筆家の主人公、綿貫の周りで日々起こる不思議な出来事。
訳あって空き家となっていた友人の実家の「家守」を任される事となった綿貫。
そんな綿貫の周りで起こる「奇譚」…不思議な出来事のお話。

庭のサルスベリは綿貫に懸想をし、飼い犬のゴローは河童や他の生き物たちと独自に交流を深めている。
それらが普通ではない、と自覚のある綿貫に対し、さもこんな事は当たり前ですよ、そういうこともあるでしょうという周囲の空気が奇妙で、まるで夜道を歩いていたらいつの間にか異世界に放り込まれた様な感覚。
幻想的であり、だが描写は妙にリアルでそこが面白い。

綿貫の友人、高堂は学生時代に湖で行方不明になっている。
綿貫が住む家は高堂の実家なのだが、その彼がある日、床の間に掛けられている掛け軸の中からボートを漕いで現れ、抜け出してくる場面がある。    

──どうした高堂。
私は思わず声をかけた。
──逝ってしまったのではなかったのか。
──なに、雨に紛れて漕いできたのだ。
高堂は、こともなげに云う。

家守奇譚 梨木香歩


彼の出てきた床の間の掛け軸は葦の生えた水辺の風景で、白鷺が魚を狙っている構図とある。
いつの間にか外と同じ雨が降りだしたその掛け軸の絵の中から、主役であろう白鷺を追い出しつつ、ボートを漕いでやってきたのだ。

家の掛け軸から人が出てくる。
かなりただ事ではない。
が、高堂は飄々と現れる。
ボート部に所属していたらしいので、そのフォームだってきっと正しく美しかったろう。
それもあってか(?)綿貫は腰を抜かしたりはしないものの、やっぱり一応驚いてはいる。
(某長髪女性のように這って出てこられたら流石に叫びもすると思うけど)
驚いてはいるが、『思わず声をかけた』くらいだから恐怖は感じていなかっただろう。
とはいえ、この高堂が現れる前も見方によってはかなり怖いシチュエーションなのだが、綿貫はそれに対してもそこまで怯えている風でもない。
やっぱり綿貫だって十分普通じゃないと思うけど…。

ともかく、そうして現れた高堂は、それ以前に綿貫の身に起こった奇妙な出来事についてのアドバイスをしてまた掛け軸の中に戻ってしまうのだった。
もう会えないのか、と問う綿貫にまた来るよと言って。
再びボートを漕いで。

でも、これがなんともいい。
もし、私が亡くなったとして、親しい誰かの前に姿をみせることができるとする。
そのとき、相手が、あれ、死んだんじゃなかったっけ?なんて軽い返しをしてくれたら、いやまあそうなんだけどさ、と会話がスムーズに進みそうではないか。
いなくなった事を寂しくは思って欲しいが、泣き暮らすようなことはして欲しくない。
形は変わっても相手を思う、決して大袈裟ではない心が(綿貫のことを笑ってみたりもするけれど)無性に優しく感じられる。

各章のタイトルは植物の名前となっており、お話の端々から季節感が伝わってくる。
新緑の頃、梅雨、野分(台風)の日…。
タイトルの植物たちに纏わる不思議が混ざった、ある日の話が綴られているのだ。

最後の章、綿貫の放った一言が心に残る。

──私の精神を養わない。


どうこの言葉に辿り着くかはお話を読んでほしいのだが、これは実際の生活に置いてもとても大切な言葉だと感じた。

精神を養う。
それは自分にとって心地の良いものばかりとは限らない。
辛く苦しい、居心地の悪いようなそんなこともあるだろう。
なにもそういうものに真正面から向かっていけという事では決してない。
時には逃げることだって必要だ。
だが、いずれにしても自分の周りに起こる出来事は自分自身を形造っていくもののひとつになっているはずだ。
それをどう解釈するか、どう拾い上げるか。なにを感じ取るか。
自分にとって不都合な出来事は不都合としか感じられない時もある。
精神の糧となるのは、もっとずっと忘れるくらい先のことかもしれない。
それでも。

梨木さんの別の著書に『理解はできないが受け入れる』という言葉があった。
まさにこの物語においてもそれが体現されている。
この言葉、いつも自分の胸の中に留めている。

世知辛い世の中となってしまった今。
自分の価値観でしか物事を量れない狭量な考えに陥りそうになった時、この言葉を思い出す。
そしてこの物語を読んで、心を整えている。 深い深呼吸をするように。




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