言葉のチカラ。
最近、3冊の本を読んだ。
その中の2冊は阿部広太郎さんのものだ。
阿部さんの本は、私のこの何年かのモヤモヤを、そっと温かく寄り添って導いてくれるようなものでした。
私が最初に言葉のチカラを意識したのは、幼稚園の頃だと思う。私は、絵が好きだったし、言葉に関する表現をしたかったので絵本作家になりたいと思っていた。
また、魔法使いに憧れて、雨乞いの歌を自作して歌う遊びをたまにしていた。歌うと、なぜか雨が降った。その時、地球の小さな私の声が宇宙に届いているのではないか?と思った。その体験は、とても不思議で面白かった。
高校生になり、私は音楽が好きになった。
繰り返しカセットウォークマンやMDウォークマン、CDウォークマン、あらゆるウォークマン(書きたいだけ)で、何度も歌を、歌詞を聴いた。行けない場所に行き、体験したことのない感情を味わい、また感じたことがある感情にまた出会う感動的な体験だった。その頃も絵を描いていた私は、いつか言葉を表現するために、絵本がかけたらと思っていた。
確かディスカヴァーから発売されていた自分で作る絵本を購入して、自作絵本を作成した。
大学を卒業したら、絵本を描きたいと思っていたはずの私だったが、高校卒業を目前に音楽の仕事をしようと思い立った。
あの日、私はりんごのデッサンをしていた。
4Bの濃いえんぴつで輪郭を描きながら、『私がやるのは絵ではない』という声を聞いた。
それは、強い直感だ。私の行く道は、音楽なのだろうと思った。
それまで、まったく音楽の勉強なんてやったことがない私は、その足で教務課に向い、音楽に関する進路への変更希望を伝えにいった。その後、奇跡的に音楽大学に入学し、自作の曲を作った。作詞も自分で行い、言葉に関する表現をするという私の願いは叶いはじめていた。
大学生の時はヒップホップを聞いていた。
言葉にチカラを感じたからだ。生々しいし、痛々しいし、生きている感情があった。その毒々しいような強い感情に触れてるとき、言葉のチカラを感じていた。
近年、私の人生を支えていた『言葉のチカラ』を私は信じられなくなっていた。自分の感情が分からなくなってしまっていたからだ。何が食べたいのか、何が嬉しいのか、悲しいのか分からなくなった。
今思えば、傷つく体験の中で、自分の感情を見ないようにしていたのかもしれない。おのずと、映画を見ても本を読んでも感動できなくなっていた。
感情を動かさないようにしている私に、言葉の手が触れるわけもない。
少しずつ自分と向き合って、自分の感情を思い出していたこの頃、阿部さんの本を読んだ。
阿部さんの本に触れ、自分の名前について意味を調べてみようと思い、名前の字源を調べた。
私の名前は、友達に恵まれますようにという意味がある。それ以外に神の遣いとして、他人のために尽くすという意味もあった。
私は、小さな頃『私は神様に選ばれたの』と、よくくちにしていた意味を時間を経て知ることになった。神様に選ばれたというのは、この世界で、この世代に生きることを許可されたという意味で使っていたように思う。
言葉に苦しんだり、和らげられたり、反芻する痛みに散々だと腹を立てながら生きている。目に見えないものなのに、そんな風に感情を揺さぶってくる。
私はそんなチカラが好きなのだと思う。
もし、私が夏目漱石ならアイラブユーを月が綺麗ですねではなく、『あなたのトナリがいいなぁ』にすると思う。
阿部さんの本を読み、こんな風にブログを書いている私の心は動き、充分に満ちている。
言葉には確かにチカラがあったのだ。
傷つけるものではなく、勇気をくれ、私を前に進ませる見えないチカラだと今は信じられる。
言葉はチカラなんだ。
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📕読んだ本
●それ、勝手な決めつけかもよ?
●心をつかむ超言葉術
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