小学生時代②
親戚の家から出て市営住宅に引っ越し、そして母の実家で暮らすことに
親戚の家の一間を母、姉、私の3人で暮らす日々もそう長くは続かなかった。期間としては1年くらいであっただろうか。
その後、移った先は市営住宅。その住宅は訳ありの方が多く住んでいる印象だった。中学校のそばに在って、ヤンキーの先輩が沢山住んでいたから。
そこに3人で暮らし始めた。とても居心地が悪かったことを覚えている。
必要最低限のもの(カーテン、布団、ストーブ)くらいで住み始めて、落ち着ける環境ではなかった。
トイレを流したら、下の階の家から苦情が来た。意味が分からない。流す音がうるさいんだと。夜中にトイレに入らないように気を付けたり、音が響かないようにマットを敷いてみたりした。
それでも効果はあまりなかったようだ。市営住宅での生活もそれほど長くは続かず、半年くらいで出た。
次は母の実家に戻ることになった。我が家は父がマスオさんの家庭なので、
母の実家と同じ敷地内に父がマイホームを建て暮らしていた。
なので、母の実家に戻ることは、父と顔を合わせるようになるということだった。
実家から5歩歩けば父が住む家がある。父と母が離れてから私も父に対し、恐怖心を持つようになった。
その頃、父はアルコール依存症で、酔って母の実家に殴り込んでくることや、酔ったままたばこをふかすのでよく小さなボヤ騒ぎを起こしていた。
母の実家に酔った状態で大声を上げ暴力を振るう父の姿は鬼のようだった。
母や姉が鬼、と父のことを呼ぶようになったのはそのせいだろう。
私は習い事や友達と遊んだり楽しく過ごしていたが、母はより良い職を探していくつかの仕事(販売業、接客業など)を経験していた。
姉は中学生で反抗期ということもあり、姉と母の関係もうまくいっていなかった。姉は私よりもこの家庭の被害者であり、一番苦しませられていたと思う。
私が小学生高学年になり、姉は高校生になり、母は介護の仕事を始めた。夜勤もあり、母がいない夜も多かったがその頃は母の実家には祖父、祖母がいてよく遊んでくれた。
父と母は家庭裁判所で争っていたが、話は平行線のまま。養育費3万円を義務付けられたが父は一切払わなかった。
こんなこともあり、私は男の人に依存しないで稼げるようにならなければ・・・と思うようになった。
母は介護ヘルパーの資格を取り、仕事を一生懸命やっていて自立しようとしている姿も見ていたからだろう。
次は中学生編です。