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選ばれた言葉、添えられた想い、確かに存在する実感。(33の伝言 特別編)

「ああ空よ 夜をどれだけ薄めたらそんな青さで塗りつぶせるの」

 この歌はミルクさんの最高傑作だと思いますし、未だ私はこれ以上の歌に巡り逢ったことはありません。

最初に読んだインパクトから、二回三回四回、もう何千回も詠んで覚えて暗唱して我が身の一部のように咀嚼して抱きかかえているにもかかわらず、瑞々しさとリアリティは微塵も失われず、目の前に相応の景色があってもなくても、瞼を閉じればいつも同じ映像が映し出されます。うまく言えませんが、感覚を飛び越して思考が映像を導いているにも関わらず、感覚で直に感じたような鮮明さと鮮度が保たれている不思議な歌としか例えようがありません。
うたよみんをしばらくお休みされていて、再開されていきなりこの歌が投稿されました。
プレーンな白の背景に青い明朝体で二行書きがミルクさんのおきまりのスタイルですが、この時に「うわぁ、もうこのデザイン(短冊スタイル)は使えないなぁ」と、確信しました。そのくらい凄まじい衝動にかられたことを覚えています。
「これが短歌というものか」
「これが短歌というものなのだろう」
「これが短歌ではなくてなんなのだ」
「これこそが短歌じゃないか」
「こうやって詠まなければならないのだ」
と、私の頭の中を駆け足で思考が走り抜けた瞬間でもありました。

その後うたよみんを離れられたミルクさんのブログ内で実際の短歌や作歌に対する考えを知ることになるのですが、それまでは「突然舞い降りた」系の幸運な歌なのではないかという考えが頭の隅にありました。(だから私にも舞い降りる時があるのではないかという自分勝手な言い聞かせに過ぎないのですが・・・)
しかし何度も何度も繰り返して読んで読み込んで考えてみると、やはり言葉は丁寧に選ばれているのだということがよく解るのです。
「突然舞い降りる」前段階として、頭の中でこれでもかという程煮詰められていたのだと思います。やっとそこまで思考が追いついてあらためてこの歌の凄さと、ミルクさんの歌に対する覚悟が理解できました。

 一見すると理屈っぽい歌が特徴的なミルクさんの短歌ですが、それはそもそも短歌を「事象の断面を気付きを伴って見せる」ものと捉えられているからで、ただの出来事や観察日誌や妄想ツイートとは決定的に違う性質のものです。
さらっと読めば、夢見がちな少女の独り言・・・とでも形容できるような、いつものミルクさんのテイストではない違和感も、言葉を選び削ぎ落として行き着いた先だと気付いた時に霧を晴らすように消えてゆくのでした。

 歌の起点は多分(空)(夜)(青)なのだろうと思われます。色は青しか使われていないのに、夜を薄めるというあたりがさすがです。けれども、初句の「ああ」という詠嘆や結句の「~るの」という問いかけは、本体ミルクさんが嫌悪されるはずの「自己愛」や「自分への纏わり付き」を幾分想起させます。更に「どれだけ」と「そんな」という二つの抽象表現が一番気になります。歌意へのフォーカスが極めて鋭いミルクさんが、このような曖昧な言葉を使われていることに、最初は驚きしかありませんでした。

 これらの疑問点は、後にブログを幾つか読んでいく中でゆっくりと納得へと変化して染み込んで来ました。
その中心核を成すものが、「人は言葉を託されている」というミルクさんの流儀なのだと私は思います。つまり「誰かが歌を詠んだとしたら」の誰かが、もはや人だけではなく、あらゆる生き物にまで拡張されているのです。ここで勘違いしてはいけないのは、(あらゆるもの)ではなくて(あらゆる生き物)だという所です。
前衛歌人にありがちな、無機質なものも含めてあらゆるものを擬人化してしまう安直な悪癖ではなく、「生き物が詠んだとしたら」の大前提として敢えて「ああ」という詠嘆からスタートしているのです。この事がリアリティ(質量感)を決定付ける一丁目一番地なのですが、ニューウェーブ以後の多くの歌人達は殆ど理解できてはいません。愚かな自分語りや自分にしか解らないことを無機質な対象を擬人化して着地点もないまま書き殴る多くの短歌がつまらないのは、結局は思考が疎かになっているだけで、欲望を制御できない投稿中毒者のゴミを見せられているからなのでしょう。

「言葉を託されている」という流儀のもう一つの側面は、「思考を導く」ということにあると思っています。
(色)や(音)や(触覚)を、~のようなというような比喩を用いずに、頭の中に描き出してもらうために、敢えて曖昧にした「どれだけ」と「そんな」のチョイスだったのでしょう。
たとえ見えていなくても、たとえ聞こえていなくても、たとえ触ることができなかったとしても、頭の中で「どれだけ」と「そんな」をかき混ぜて、可能な限り映像に近づける作業を導いているのだと思います。

ミルクさんは常々、「感覚が不自由な中で生きて生活している人達の感性は健常者の生ぬるい想像を遙かに超えていて、もはや学ぶべき所しかない」とまで言われています。
見えない立場のことも、聞こえない立場のことも、触れない立場のこともすべて考えて、言葉は選ばれるべきなのでしょう。(もう何か一介の素人の発する言葉ではない程、説得力を感じます。)
一面が淀みなく青に染められた空を見上げているのは、人だけではなく、動物や昆虫や草花や、目に見えないほど小さな細菌かもしれません。もしも彼らすべてに言葉があったなら、このように詠むのではないかということを頭上に掲げてミルクさんは作歌されたのだと思います。

やたらと難しい言葉や、フリガナなしでは読めない漢字、意味の無い旧仮名遣い、人に固有の抜き言葉や短縮形の言葉、何よりも自分中心の自己愛の権化が憑依した歌を、決してこれからもミルクさんは許さないでしょう。

「愛がいちばん」とよくコマーシャルが連呼していますが、本当にそうです。
「そこに愛はあるのか?」
歌人と名乗る者はすべて、この問いに全身全霊で答えなければならないのでしょう。

私は今も毎日、この歌を暗唱しながらその厳しさを胸に突きつけて背筋を伸ばします。
ミルクさんという物差しがあって本当によかったと思っています。

X/33 ああ空よ 夜をどれだけ薄めたらそんな青さで塗りつぶせるの

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/