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比喩を無理やりこじつける=「着想」の勘違い

 先日も京大をはじめ○○短歌会なる同人の会報誌を目にする機会がありました。
最近は多くの方が短歌雑誌の○○人詠に登場することもあって、プロの方も多く混じっておられるようですが、いやはや中身は以前としてすっからかんのままで、とても師匠に「読んでみて下さい」とはオススメできない代物ばかりでした。
小学生や中学生は時に大人もハッとさせるような発見を導く歌がありますが、高校生や大学生ともなればもう方法論に長けた頭で何でもショートカットして時短で済ませることに慣れてしまって、肝心の所に気付きもしないまま悦に入る人が殆どなのでしょう。何だか本当に痛々しい限りです。

 学生さんに限らず、みなさん「歌人」と名乗りたい、呼ばれたいが喉から出てしまっていて、プロフィールにも○○所属とか短歌結社の名前を載せたりと必死な様子だけは見てとれますが、たいていは「逆効果」です。せいぜい「結社や短歌会に入っているのにこの程度?」と思われるのがオチです。

こういった頭でっかち歌人達の特性はとても解りやすく歌に顕れます。

1・歌意は人任せ。「作者を離れたら独り歩きする」などという勝手な言い  分で都合良く  解釈することで(ありもしない)歌の本意から逃げま  くる。
2・辞書で調べないと無理な難読漢字や新しい言葉、珍しい言葉を好んで使  う。
3・固有名詞のオンパレードで自分の経験値スケールに大きく依存してい   る。
4・上句と下句がバラバラな繋がりのない組み合わせを意図的に構成して尖  りアピールを欠かさない。
5・尖鋭表現を特徴付けたくてデリカシーのない差別的な言葉も平気で使っ  てしまう。

「短歌が好きで気に入った短歌は書き留めています。」などという若者が実際やっていることは単なるスクショであったり、noteをはじめとするSNSが入選自慢投稿合戦の場になっていることが何より短歌が舐められている証拠でしょう。本物の価値を知る人があまりに少ないことで、解釈の箍が外れて野放しになっていることに気付いてすらいないのです。

そして総じて自分か自分の身近の限られた出来事に終始して、メルヘンの殻の中に閉じこもっている歌がとても多いことも疑いのない事実です。
失われたカルチャーの元凶である、「おててつないでみんなでいっしょに・・」という馬鹿馬鹿しい思想が多様性を誤って解釈したせいで「みんな違ってみんな良い」という歪な価値観を産み出してしまったがために世の中の拡大解釈が止まらなくなってしまいました。

 それが短歌なのか、ただごと歌や自分の日常報告なのかは、割と簡単な方法で見極めることができます。
短歌のあとに、「そうですか、それでどうしたの?」と片っ端から続けて読んでみて下さい。違和感なく続くのであればそれはただの報告です。ただの報告だから作者も何も見いだせていないし、ましてや読者が何か見いだせるはずもありません。

 全てに詞書きを付けてみたり、初めて知り得た珍しい言葉を得意気に使ってみたり、「あなた固有の経験をどうやってトレースしろと言うのか?」と言いたくなるほどの体たらく、本当に頭の中も現実もお花畑全開の安定度です。「あなたが降りた駅とか、あなたが食べたパスタとか、あなたが捨てたものとか、あなたが聞いている音楽とか、そんなものを読者は一切知る由もない。」ミルクさんがなぜ短歌の定義を(事象のカステラの断面)と言われたのか、万人の誰が見てもわかる直方体のカステラのイメージだからこそ断面の切り出し方に特徴が出るわけで、「私が買ったカステラ」とか「○○堂のカステラ」とか、「スポンジ生地が秀逸」とか、「カステラ作ってみました」という間違ったアプローチしかされていないのが大多数の短歌と呼ばれているものの正体です。

 「盲目」という、もう死語にして使って欲しくはない言葉も平気で使われていたりもします。
偉そうに御託を並べても、その言葉を置き換える術をもたない者はとても愚かです。
目が不自由な人を侮蔑するような「そんな意味で使っているのではありませんよ」と言い訳だけはご立派ですが、そもそも「作品は読者によっていかようにも解釈される」というふうに解釈を手放しておいて、ダブスタも甚だしい所です。読者によっては侮蔑と捉えられても構わないということを、自ら認めてしまっています。とにかく自分勝手で愛が感じられない。言葉を置き換えられることが唯一とも言える文芸作家の矜持を持たずに、作家だ歌人だ俳人だなどと言ったもの勝ちのようにゴミクズのような作品をばらまき続けているのです。

 最果タヒさんに代表されるように、何かというと「死」を持ち出して刺激や落差を装う風潮はまるで幼稚な言葉遊びで、ただ「あからさま」な言葉をぶつけているだけの殴り書きです。「あからさま」な言葉から最も遠い場所から心象や現象を綴れなければ、思索を誘導できるものなど生まれるはずもありません。何でも時短でインスタントに叶う世の中になったからこそ、丁寧に丁寧に読み解かれるものを作る必要があるのだと思います。
とにかく尖っているように見せたい、ハイセンスだと思われたい、サブがついてもカルチャーの端っこでいたい、斜にかまえた自分達をアピールすることに必死で、他者に対しての思いやりのひとつも感じられないのです。

それはそれはケンタウロスのように上半身と下半身が異なっていれば、誰でも奇異の視線を投げかけるでしょう。しかし本当に大切なのは見た目などではない本質的なものだと思います。落差や驚嘆ばかりに飛びついて自分勝手に作り続けているかぎり、見るべきものを見ないまま年老いて滅びてしまうだけです。詠うべきもの、綴るべきことは目のシャッターが捉えた景色ではなく、心のシャッターが捉えた景色です。自身の狭い視野、偏った世界から知れることなど読者にとってはただの他人事です。
「異世界の特別な能力者」シンドロームが若者を席巻していますが、履き違えも甚だしいただの妄想です。
異なることから何に気付くのか、小さな段差から何を学ぶのか、真摯に学ぶ姿勢がなければ、詠んだ人の心に刺さる作品になど決してならないでしょう。

皮肉にもケンタウロスは弓の名手。人よりも2本多い4本足で、しっかりと大地に踏ん張って弓を引き絞ります。言葉という矢を射る私たちに、まるで「ぶれるな」「昂ぶるな」「傲るな」と諭しているかのように地平線に輝いています。

・異なるを履き違えるな さまよって刺さる事なく落ちる歌の矢

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/