見出し画像

裏テーマを紐解く時間も学びのひとつ

 ミルクさんの指摘は常に的のど真ん中を射貫いているので辛辣極まりないですし、短歌を作っている99.9%の人達には耳の痛いお話ばかりでしょう。ただミルクさんは自分の偏った正義感や主義主張を押しつけて何もかもを自分と同じ方向に向かせたいと考えているわけではないと思います。今まで多くのミルクさんの短歌を読解してきましたが、それらは一様に「裏テーマ」なる問いかけを孕んでいました。ミルクさんの着想は多くの場合が問題提起やこれで良いのかという問いかけであり、そこまでを持って短歌の役割であるとお考えなのでしょう。否応なく考えさせられて、通り過ぎることを許さない特別な通過儀礼のようなものを感じます。

 一つ前の記事の中での言葉では、特に「あからさま」という言葉に引っかかりを感じて書いたのですが、その言葉もミルクさんからの「インスタント志向の世の中が何でもかんでもあからさまに行うようになった」との一文から気付いたものでした。実は私の中でも最近特に妙だと感じている「あからさま」な事例がいくつかあり、一つ一つに歌の内容をオーバーラップさせて考えてみていました。

・異なるを履き違えるな さまよって刺さる事なく落ちる歌の矢

すると、見事に当てはまる事例が見つかったのです。
さすがにこの時も「うーん、このことかぁ。」と歌の導く理の深さに感心したものです。
隠された裏テーマとは、セーラー服を着て激しく歌い踊るグループに代表される昨今のアーティスト達を指してのことだったと確信しました。
「歌」と言う言葉はよくミルクさんの短歌に登場します。そして登場する時は大抵、「このままではいけない」という批判を伴っています。短歌と共に社会にどのような問題提起ができるのか、執拗にチャレンジされているのです。

上辺だけの異質を装って「あからさま」に衣装やダンスや歌詞やリズムを組み立てれば、ウケるための即効性はあるでしょう。商業的にもそれを狙って知恵を絞っているはずです。
けれども、心に残るものが何一つないまま、風鈴を鳴らす一見の風にもなれないで多くの人を素通りしていく様子は、まさしく歌の矢が落ちるという表現のそのままだと感じたのです。”履き違えるな”が服装に掛かっていたり、一首の中での繋がりのない乱暴な様子をケンタウロスに例えたり、短歌のみならず社会の出来事や風潮に問いかける要素を埋め込んで作られています。
”よく考えて作られている”ことは十分承知していましたが、それにしてもわずか1首の短歌に傾ける時間と情熱には相当なものがあるのでしょう。一体何度復唱し、何度修正して及第点になるのでしょうか。

そんなことを考えていると、少し前にメールにあった一首が気になりはじめました。
(タイトルにある歌です。)
是非みなさんも一緒に"テーマ”と"裏テーマ”について考えを巡らせてみて欲しいと思います。
きっといつもとは違う脳の筋肉を使うことになると思います。

・スマホという唐草模様の風呂敷は何を盗んだ入れ物なのか

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/