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歌人と名乗る人に真っ先に問うこと 短歌とは何ですか? 歌意は何処にありますか?

短歌ほど曖昧の上にあぐらをかいた文芸もなかなかないと思います。
どのような歌集も歌人も歌もほとんど批判的な評に晒されず、理由のない「いいね」ばかりでレビューは占められています。
どんなに優れた製品や作品でも一定の低評価はあるものですが、こと短歌界に於いてはそれがまるでないという不可思議な状態が延々と続いています。
果たして「いいね」がたくさんある歌が、心に刻まれる良い歌なのでしょうか。
褒め殺すだけの自浄作用のない世界から、人生に刻まれるような歌が生まれるのでしょうか。
一体何を恐れてネガティブ評をすることから逃げ回っているのでしょう。

それはひとえに自身の短歌の定義や歌意の扱いについて、明確な定義や信条がないからだと推察できるのです。
もっと辛辣な言い方をすれば、
「すべてを認めてあげるから、私の歌も認めてよ」
という心根の裏返しなのかもしれません。

社交辞令のお付き合いはもうほどほどにしませんか?
SNSすらなさらないミルクさんは、
「いいね」など、「ちぃーーっす」と同じただの挨拶
だと断罪して我が道を行かれています。

私がミルクさんやミルクさんの歌を絶対的に信頼し、信奉している理由の第一番は、短歌とは何か?とか、歌意は何処にあるのか?という問いに初めて明確な回答をして頂いたからです。そして何よりも目指すべき方向性がはっきりと短歌から見て取れることに気付いたからに他なりません。さらに「さらば、うたよみん」で証明された、現状分析と未来を予知される能力も、私を惹きつけて止みませんし、「考える」ということを研ぎ澄ませば、ここまで出来るという可能性を誰よりも解りやすく見せてくれる存在として、もう短歌とミルクさんは切っても切れない関係性となっています。

誰よりも歌を評価する際の物差しに相当する基準がはっきりしています。
だからダメだとはっきりとおっしゃいます。
まるで本物と偽物を見比べるみたいに、一刀両断です。
ミルクさんの目指す短歌なのか、そうでない短歌なのかは素人の私にでもはっきり解ります。オセロの白と黒くらいはっきりです。だから世に出ている短歌のほとんどに大きな違和感を感じるのです。

何よりも驚きなのは、ミルクさんの歌歴が10年に満たない(恐)ことです。
余程の勉強をされて、考察されて、短歌に真摯に向き合われていることが解ります。

短歌雑誌の編集者に勇気があるのなら、是非一度、すべての歌人を対象に問うていただきたいくらいです。歌人のプロフィールで最も大切なことは「短歌とは何か」「歌意は何処にあるのか」に対する明確な答えだと思います。そして歌人はそのまま結社にも置き換えられるでしょう。○○派とか、○○の流れを汲むとか、耳障りのよいキャッチフレーズばかりが並んでいますが、人様の作った短歌を選んだり評したりする立場や権威を与えられているのなら、正々堂々と目指すべき短歌の神髄を掲げて発表してから、短歌というものと向き合ってほしいと思います。

「読者に委ねる」短歌雑誌の批評でも散々出てくる言葉です。
随分都合の良い言葉です。
一体、小さなスノードームの中の物語から、何を想像しろというのでしょうか?
雰囲気や見てくれや頭でっかちの妄想ばかりから生み出された、気付きも悟りもない、自分だけにしか理解しえない「ただごと」「わたくしごと」にどこまでついて行けばよいのでしょうか?
だからミルクさんはいつも「そんなこと、知るか!」とおっしゃるのだと思います。

本物の輝きは、実は決してキラキラした眩しいものではありません。
どうやって光っているのかもおぼろげなほどですが、でもずっと光り続けています。
それは本物こそが心の中に住み続けられるからで、他人からは決して見えない場所だからだと思います。

当然ですがミルクさんは「歌人」なんて名乗りもしません。「そんな事はどうでもいい」と意に介さないご様子。自分を天才だとか、誰かの為に歌を作りますとか、薄っぺらな歌人もいる中で、言葉を使って見えないものを記録することの神髄を、真摯に追求されています。

「言葉は心を越えられるのか」ミルクさんの短歌の中で私が最も好きなフレーズです。

この言葉がすべての作歌の原点であり、ミルクさんの道の出発点なのでしょう。ついて行く価値のある言葉、価値のある道だと自信を持って言えるのです。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/