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大切なのは読めること、ただ詠むだけなら人はいらない。

 これだけ巷にゴミのような短歌が撒き散らされると、第二のうたよみんとなって閉鎖や削除の憂き目にあうサイトや、有料化によって容量制限や強制削除を避けなければならないという時代はそう遠くないと思われます。

そもそも「読める」人が圧倒的に少ないことが、文芸の中で短歌を停滞させている根本の原因なのですが、このnoteで何度もお話しているように、プロの歌人の中にも読める人はごくごく僅かしかいらっしゃいません。さらに●●賞とか●●歌壇とか多数の方が応募する系の短歌は、そもそも選者に読まれてすらいません。(あらかじめ別の人によって振り分けられるので)読めない人にいくら優秀な歌を見せたところで何の反応もないのは当然でしょう。圧倒的に読みに費やされる時間や頻度が少なすぎるのです。

短歌にとっては「読み」こそが肝であり、ミルクさんに至っては99対1くらいの割合で「読み」を鍛錬することが短歌の中心だと言われています。作歌は子供でもAIでもできますが、本当に優れている歌の読みはAIでは不可能だとも話されました。

「読めない」のに「詠む」人ばかりが増えて、いつの間にか歌壇とそれをとりまく環境は「読めない」ポンコツばかりになりました。
批評記事や添削コーナーをちらっと読んだだけでも、「お前、それは違うだろう」と首をひねりたくなる評や改変の多さに辟易しますが、なぜか決してネガティブなことを口にしないおかしな仲間の集まりであることを自覚しているのかしていないのか、終始上辺だけの綺麗事で納めようと必死なようです。

先の記事でも書きましたが、世襲や権威や掲載数や投稿数が記憶に刻まれる優秀な短歌の条件などではありません。残念ながらどのような受賞歴があったとしても、歌そのものに圧倒的な力がなければ殆どは記憶に残らないものです。ミルクさんの言葉にもあるように、「自分でしか自分の歌にマイナスは付けられない」ことの重みを自覚して、誰よりも厳しい「読み」をしなければ歌はいつまで経ってもキラキラ日記の延長線上でしかありません。

 ミルクさんが初心者の頃に投稿した短歌には、散文的(説明的)だという評がたくさんあったそうです。気付きや悟りを伴っているので、説明的なことはあたりまえだと思いますが、歌人達は趣がないとか言って意に介さなかったそうです。ただの散文なのか、深い意味を内包した短詩なのかくらい解りそうなものですが、ちらっと読んだその一瞬で決めつけてしまう人達に、「もう何を読ませても無駄」だという判断をして一切投稿の類いはされなくなってしまいました。
 ミルクさんが最も懸念されているのは、プロアマに問わず本当に素晴らしい短歌が誰の目にも触れずに闇に消されていくことの大きな損失についてです。プロはまだ発表の場に恵まれているので良いでしょう。(しかも選を経ない大甘さ)素人は何かにつけて(読めない選者の選という壁)を突破しなければ披露すらされませんし、学歴や結社や年齢や様々な忖度の上で成り立っている●●賞、●●大賞なども同様でしょう。もはやプロとアマチュアの境は無いに等しいものです。

 いずれは全く無名の作者の歌集が現役歌人達の歌集を凌駕する(商業的にも)ことになるでしょう。時間の問題です。

 歌人は万華鏡を見ることばかりに夢中になって、その模様を如何に見せるかという本分をすっかり忘れてしまっているようです。「読めない」歌人達の歌はどこにも刻まれず、今日も雑誌やネットを埋め尽くしています。

・万華鏡 捨ててしまおう目を閉じて気配の先に辿り着くため

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/