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JFK空港

FamillyRecord_⑪JFK空港_note

ここから世界のどこへでも飛び立ってゆける。
東京、ベルリン、ストックホルム、リマ、マルタ、スルツェイ。
あちらこちらを旅した旅人が、導かれたのはスタート地点のような場所。11曲目。
終着点ではない。
物語の終わりは、『スルツェイ』だから。
飛び立つために、ここへ来た。


目を引くのは、後半の長いポエトリーリーディング。
『旧市街』で印象の強かった手法は、また違う表情で我々を圧倒する。
絵本の読み聞かせのように、優しく語りかける『JFK空港』。
繰り返されるメロディラインに合わせて言葉は語られる。
そのふたつは混ざり合い、歌詞のための音楽なのか、音楽のための歌詞なのか、境界線を溶かしてゆく。
読み上げられる文章は、おとぎ話のようにも聴こえるし、寓話に見せかけた無意味なものにも思える。
つまり、意味は無いって事。
意味は無いのに、なぜか涙が込み上げる。
意味を超えた何かがそこにはあるんだと思う。
理解は出来なくても、胸に迫るもの。
"救われた"という気持ちになるもの。
わたしは、少し思い当たる節がある。
"読経"は、これに似ていると思うのだ。
経典は仏様の言葉で書かれている。
意味は分からずとも、仏様の言葉で唄えば、心が安まる。
救われたような気持ちになる。


でもパパは自分を救うために、子どもを犠牲にした。

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「管制塔黙り込む 機内の酸素は薄れる
かつて嫌った夕焼け
燃える客室の中で
嘘をつけない体で
ふたり こころに決めた」
タイミリミットが迫った時、パパとママは決心した。
子どもを喪う事を。

『もしもし パパだよ、ママだよ』
その電話は繋がってません。
今は居ない、あの子へ。
パパが拒否した、子どもへ、向けて。
空虚なベルがリンリンと発信。

『今頃はうちに着いたかな』
どこの事なの。
どこに行って欲しかったの、パパ?

『ごめんね、許して、許して
僕らまだ子供だったんだ』
パパもママも、幼稚だった。
きみを授かるには早過ぎた。
子どもに許しを請う子供達。
なんて自分勝手で、許されないんだろう。

「いいよ、いいよ、知っていたよ
目隠しをして産まれて来たんだよね」
自責の念に囚われたパパが、子どもからかけて欲しかった言葉を自分で紡ぐ。
「いいよ」と、言われたかった。

「きみはいま次の夢を見ようとしている
瞳孔を開いて」
死を、次の夢と語るその口は優しいけれど、卑怯だ。


「塩の柱は僕らの前にもうひとつもないよ」
聖書で、神との約束を破った者は塩の柱にされてしまった。
罪の証は、彼らの前に、もう無い。
つまり彼らは、罪人ではない。

「ぼくの誰にも知られたくなかったきみの犯罪者のような目」
"きみ"が罪を犯した事は、"ぼく"だけが知っていた。
"ママ"だって、共犯だった。

「でも どうか諦めないで
だって 僕たちはまだこの世界に産まれてはいない」
責任転嫁だ。
この世界に産まれてはいない、だからやり直しがきくとでも、そう言いたいのか。
卑怯だ。
それでも彼らはやり直す。
言葉を持たない子どもの口を塞いで、勝手に言葉を紡いで。
やり直すために『スルツェイ』へ向けて旅立つ。
世界で最も新しい島。
生まれたての場所へ。


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だから『スルツェイ』が"パパ"の旅の終着点なのだ。
自分達の身勝手で子どもを喪くした事を否定せず、罪と分かりながら受け入れる。
そして前へ進んで行く、そんな身勝手なカタルシス。

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意味なんか無くても、思い付きの言葉の羅列だったとしても。
それでも、その歌詞達は、心を暖めてくれます。
「粉々に割れたクレジットカード 水浸しの小切手」
「アルコールの海に漕ぎ出して 遭難したことを決して認めようとしない」
「きみはまだ信じられない ぼくを失ったことに ぼくはまだ信じられない きみを失ったことに」
「守り抜こうとしたものは指の隙間から 最後の最後でこぼれ落ちていってしまった」
「でも どうか諦めないで だって 僕たちはまだこの世界に産まれてはいない」
「永久に続く寝息のような 優しい象の背中」
「僕たちはまだこの世界に産まれてはいない」
綺麗な言葉の羅列だと思う。
おとぎ話のようでいて、現代を皮肉っているような、奇妙なバランスで成り立つポエトリーリーディング。
とても変な事を言いますが、肯定感がもの凄い曲だと思うんです。
前を向いてこっ★ 明日にきらめけっ★ みたいな、分かりやすい応援ソングではないじゃないですか。
なのに、静かに自分の存在を肯定してくれているような。
それこそ、『スルツェイ』で"僕"に生きる事を強要する"神秘"のようなものの歌。
それは、キリスト教で言うところの"かみさま"なのかもしれないですね。

もっと変な事を言いますが、「永久に続く寝息のような 優しい象の背中」が1番、自己肯定感を感じます。
この歌詞、本当に好きです。
"優しさ"を、"永久に続く寝息のような象の背中"と表現するのって、凄くないですか。
この1文だけで、ちょうどいい日差しの中でまどろみ、深い呼吸を繰り返す象の姿が浮かびます。
それはとても平和な光景だと思う。
あるがままの物を、あるがままに受け入れることの限りない幸福。

「僕たちはまだこの世界に産まれてはいない」も大好きですね。
"あ そうか 自分はまだこの世界に産まれてないんだ"
と思えば、この前のあの失敗も、死にたくなる自己否定感も、ふっと消えてゆきます。
卑怯だ、なんて言ったけれど、つまりそういう事なんだろう。
失敗を取り消して、この世界に産まれ直すというのは。
ゲームのリセットみたいで、卑怯なことだ。
それでも、自分にとっては大事な言葉だった。
卑怯で良いのだろう。

『Family Record』における、"パパ"の旅は、子どもを拒否した贖罪の旅だった。
"パパ"の贖罪を追体験すれば、我々はどうしても"赦されたい"という気持ちを抱く。
この罪は重すぎる。
"パパ"はそれでも生きていく。
生きていく事は卑怯な事だ。
それでも、"パパ"はそれを受け入れた。
11曲も聴いて来てしまった我々も、受け入れるほか、無い。

「受け止めて、きみ

みて
晴れた

空から降ってくる」


ラストシーン、空から降ってくるのは赦しだろうか、新しい命だろうか。
いずれにせよ、ここの神々しさは何にも代えがたい。


 言葉が 空から 降ってくる。